卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

一ヶ月から三ヶ月後にかたちのブログを非公開設定にします

一ヶ月から三ヶ月の期間中にはてなブログでのかたち一群は非公開設定にします。非公開設定にする一週間前に一度、一日前に一度確認の記事を残して、ブログを完全に非公開設定にする日には最後の挨拶をするので各位はご理解の上かたちと付き合ってください。

お知らせ

かたちはやりたいことが決まったので、一つのけじめとしてかたち活動を半永久的停止いたします。かたちは演劇を行なって、ある程度のかたちを得た暁には半端な田舎町たる地元にて、演劇を行い町を活性化させようと思います。

少なくとも接したあなたたちに幸せを祈り、接したものの一人、かたちはその全てを損なわないように、自らのかたちをただ表出する機械として、世界に存在できるように努力します。

いつかどこか違うかたちで、かたちがあなたと出会えることを祈っています。かしこ。

かたちより愛と幸福を込めて

岩井俊二さんの映画「スワロウテイル」の少女に刺青を彫るシーンを見ていると、今を生き続ける者から生まれる物語の尊さについて少々触れて涙を流したくなったが流れない。かたちという生き物はそのように、めったに涙を流せない。そのことに気を病む文章を続けるのではなく、物語の話。絵とか自分書けないし、自分めっちゃ不器用だから、全て糸を紡げず、明日に進めないとかよくあるお話で、だから嫌になる、そのような感情は確かに存在する。物語を作っている、幾つも作る人とは会ったことも話したこともないから本当のところは知らないけれども、僕は物語の力を信じていない。僕は何もかも馬鹿にしている。物語はただの物語。ペンは剣より強いことは確かだが、だからと言ってペンで人を刺すならば、剣で人を刺すようなものでなければ、ペンを剣よりも強く扱えない。少女革命ウテナ最終話の予告では主人公ウテナと影絵演劇二人により、たがが物語の話みたいなことを語ったが、少女革命ウテナは駄作にも程があるというyoutubeでの輪舞レボリューションのコメント欄に対してなにかを返そうと思っても一体私にとって少女革命ウテナはなに? 私は少女革命ウテナとは出会っていない。僕が出会ったのはエヴァンゲリオン任天堂系ゲームやキングダムハーツプロ野球少女革命ウテナというものがどうであれ、個人的には始まりの大きな門として少女革命ウテナはあるのかなと感じたのは、僕の勘違いなのかもしれない(個人的には何故か、エヴァの横には少女革命ウテナが立っているイメージがあるが、其れは勝手な勘違いかもね)。
スワロウテイル」の刺青のシーンでは少女が闇医者によって彫られるアゲハ蝶の刺青について闇医者の誘導による語られる蝶の記憶を語る。僕は「スワロウテイル」をしっかりと見ているとは思えないため、本当のところは知らないが、少女の記憶の蝶は、出まかせのようにぽつりぽつりと人生にとって、大きな枷になっているような体験について、話したかのように映像が見せてきたが、僕はそのように思えず、僕自身がそうであったからそのように語るのだが、激流に流されている人間の、世界から求められる言葉と、私自身の言葉と、私が語ろうとする言葉との、混じり合う乱れが見せた、全くの嘘でありながら、何処か真実味がかたち自身の頭の中で少し妄想してしまった。知らないが「スワロウテイル」とは架空の日本の昔話みたいか、現代話か。そのような物語でありながら、ありながら……。僕が今を語りたい。しかし今は凄く乱れている、そんな気は僕の勘違いなのか。しかし、それでも、なんとか語れるように、苦労してきたとか言っちゃいます? ただ僕の中の連続性を語る中で、逃避と誤魔化しと嘘と否定と辛苦と怒りと叛逆と様々な感情が、世界の事実をごまかして、私を語らせるのだろうか。僕は、自分は何処にも所属していないと学生時代は思っていたけれど、時間を過ごした。過ごした時間も関係なく決定されている僕を否定する僕は何様とかいっちゃいますか。僕は苦しみを受ける事を否定してはいけないとかいっちゃいますか。苦しみを受けないための機械として立派に生涯を過ごす事を誓いますか。幸せだけを残して、苦労は全て排除して生きることを誓いますか。全ての誓いの結果、誰とも出会わず死んでいく自分であることを何一つ否定することなくあったかい沼に浸かり続けることを否定なんて、あんたバカ? 結局は道なんてあまりにも多すぎて、それでも一つしか行けないのは決定しているから、それでも生きてしまえばもう何もなれないことに涙する、叫んでしまうから、何も選ばなかった、つまり両手両足による私の未来を否定したことを嘆きはしなくとも、手足を使ったものたちの僕への視線感情言葉と出会っても、否定も肯定も産まれないように生きることを誓います?
何をしても、何処に行っても一緒だ。選択の後の世界にいる者の自負、どの世界にも嫌気がさして気が乱れて進むことがとても出来なくなったかたちの自負、かたちがもっているもの、かたちができること。時間は進んでいく。「時間よ止まれ」。矢沢永吉が東京ドームか後楽園かそれとも別の場所か知らないけれど、夢を叶えた大きな箱でのライブで歌ったらしいその歌は、動いて動いて掴んだ絶頂の瞬間よ止まってくれという魂の叫びみたいな、そんな言葉をyoutubeのコメント欄で見たことがあるけれども、若い者にとって時間は貴重だ、若い者には未来がある、将来のある若者とか、そんな言葉。僕が野球をしていた時、高校一年の時の夏の大会か、負けた後だったかな。僕がスタンドで応援していた組だったのだけれど、試合後に監督部長が親御さんたちに挨拶をしたときの話。「この子たちは将来の奈良県の大切ななんちゃらほんちゃら」。小中高って、僕にとっては大人っていうのも、そんな外の世界が存在したわけではないから、彼らの言葉をよく聞いて生きてきたから、それが僕の、かたちの生き方。「未来の可能性を広げよう」。「子供は日本の宝」。「夢は無限大」。色々あったけれども、言葉は今の僕に繋がっているだろうが。僕はそんなもの、認めたものも、認めていないものも沢山存在していて。僕が生まれた世界と僕が生きていた世界と僕が生きてきた世界。様々なものが重なった上で、行動することの億劫さ、今が過ぎ去っていくことの恐怖、色々な、色々な。時間よ止まれ。僕が今言うその言葉には、死に対する恐怖、今の僕が消される恐怖、僕の意識が続かないこと、意識が途切れないならば、僕は何になっても構わない。何をしても構わないってならないのが、かたちのミソ。行動に対する意識は低い。
何かを買うことが怖い。何故か店に入れない。料理店。今ふと頭をよぎったのだが、昔僕は服屋とかの店員が僕に話しかけてくるアレ、アレが嫌だからみたいな、そんな感情沢山沢山存在した。料理店に入れない。ショップはなんとかできるよ。お金を財布から取り出すことは苦手だけれど。自動販売機は好き。宅配便はできる時もありゃあできない時もある。今日は色々食べたいものがあって大阪難波の辺りをうろちょろしたけれども、どうしても店の中に入ることはできない。僕の行きたい店が空いていたならば、なんとか入れたけれども、どの店も満席状態。仕方がないから何回か利用したことのあるカツの店に行こうとしたけれども、其処にも入ることも出来ないみたいな。お腹は空きながら、パン屋さんで買うことは慣れているから、パンをいくつか買って、なんば(なんぱとなんば、一体どちらが正解?)駅内でパン一つ食べて、天王寺駅だったかな? 経由した駅の先で、どうしても食べなくちゃみたいな感じで、一応餃子のお店にありつけたけれども、うん、色々難しいよ。そう言う話にしておくよ。では、また今度。

 

 

 

欲望をさらけ出すのは酷く醜いと、昔の僕は思った。僕は遠慮する。責任を回避する。仕返しを怖れて行動を制限する。悪意の矛先が向けられるのを怖れた。僕は悪意を口の前に持っている人間が妙に苦手で、相性が悪いのだが、理由は簡単なこと。僕の、自らを卑しめる行動を明らかにしてしまう彼ら、苦手で当たり前なのだ。
欲望は全て叶っているように見える。誰かが笑っている彼らは共に手を取り合って拍手を笑ったものたちから受ける。そのような世界。
手を怯えながら前へと出す。彼の背中に触れようとする。彼の背中が、大きく震えれば、拒絶と認識して逃げる。震えなければ、何をするの。醜い。どうしようとも欲望があるのならば、その手を何度も何回も前へと出せばいいと考える僕。

ドラマ・特撮その他 視聴メモ

メモ帳

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涙を流せる人間になりたい。涙を流せるように生きている。
なにかを書ける人間になりたい。なにかを書けるように生きている。
誰かの救いになれる人間になりたい。誰かの救いになれるように生きている。
涙を流したかった。
なにかを書きたかった。
誰かの救いになりたかった。
全て、嘘でしかない。存在しない。
自分を幸せにしたい。感動したい。感激したい。絶望したい。後悔したい。救われたい。幸せになりたい。不幸せになりたい。


言葉にしているからってそんなわけではない。まるで話している言葉があなただなんて、よく言えるわ。不思議よね。話している言葉があなたになるなんて。我慢出来ない。こうして、私も言葉にしてしまうんだから、やっぱり言葉は私だわ。なりたい私なのよ。我慢出来ない。どうしても。


金曜ロードショー魔女の宅急便がやると弟はいうけれど俺は仮面ライダーデビルマンを見ることで忙しいからとてもみるつもりにはなれなかった。しかし気まぐれで見た魔女の宅急便に離れることは出来ず、用事を挟みながらも魔女の宅急便を見た。子供の頃海の街の世界観と魔女のキキ達に感銘を受けていた僕は前回の金曜ロードショーで録画して数日後みた魔女宅には良い部分を感じながらしょうもないとか思っていたけれど、あれから二、三年、また此れは良い作品だよなと思い直した。しっかりと場所が描かれてから進んでいくお話には舌を巻いた。キキの一つ一つの動きが好き。富野監督がラブライブに対して言った(?)あの下ネタの感情は感じる、っていうかその年代ではそのレトリックの上で少女というものは描かれていたのかもしれない。キキが自分の中の感情を言葉に出す姿にはアタマが下がる。俺はそれが出来るか出来ないか分からないが、数年後には出来ていたらいいなって考える。一つ一つの仕掛けが時代を感じさせて、当時ならばという古臭さ、しかし古典が醸し出す空気を受けて、現代、一体どのように組み合わせれば、素晴らしい作品を引き出せるというのだろう。古典の醸し出す空気はあくまでも空気で、その実態は現代においては退屈で冗長で感じさせる域には辿り着かない。どうしても頭で回り道しなければ素晴らしいとは思えない作品としか巡り合えないと今は思う。僕は性格上、環境上、私上古い作品ばくりに逃げ込む人間だから、だからこそその上で、なんとか自分の見てきたものを現代の進行に弾いて、見せたいと考えてしまう(やはり古い作品の何かに惹かれる僕だからこそ)。


頭がどうしても繋がっていない。どうしても知識と行動と経験が不足している。だからと言って動き出さない。自分とは違う行動を取り続けるから当たり前だ。そうして、一体なにになりたいんだろう。分からないわけではないが、話さないから、話さないから、忘れてしまう。

 

 

追記
なにか書こうと思っていたけれども、忘れてしまえば、書くことは出来ない。でも、すこし時間をあけると書くことを思い出すことは可能だ。僕はそのような感覚で生きている。


言葉の箱ってある。人間は受け入れられる言葉がある。例えば自殺したい気持ちを誰かに話そうとしてあなたは誰に話した?(今までにない人、不快に感じる人は別の言葉を当て嵌めれば簡単です。出来る限り言葉にたどり着かなかった嘗て、現在の言葉達を考えて)。母親、父親、祖父、祖母、おじさん、おばさん、兄、妹、弟、姉、友人、先生、警察、壁、犬、猫、山、アニメ、自分、脳みそ、天井、ゴミ、公園、その他その他。話せる箱の大きさはどれくらい。話せる箱に至る、言葉になる前の通ってきた箱の道はどんな道だったのか、結果的な箱の並べ方が、私っていうものを決定していく。そして、そのことを言葉にしないように、生きるべきなのだ。箱の並べ方に気が回っていては、とても生きているための時間は存在出来ないだろうから。

 

お世辞や儀式や行事や。ああいうものの、偽善ぷりが嫌。祖父が死んだとき、自分は葬式の場に座っていられるだろうかとシャワーを浴びながら考えた。もし、現在の予想通りに事が運んだとして、祖父が死んだと聞いた瞬間に僕は滅多にしない旅行を三日か四日、いや一週間して家を開ける。電車に揺られて、どこか知らない寂れ人が消えていく町の白く枯れた砂浜にて、キザっぽく、感傷も存在しないくせに、こうしていれば充分だろうと考えながら地平線をカモメの声と波の音を聞きながら過ごす。たまに知らないおじいさんが僕に話しかけてくるが、無難にやり過ごして時が来れば、実家に帰って、微妙な表情を母からうけながらまた、実家に住みつくのだ。
欺瞞ってなんなんでしょうね。わかりませんね。色々わかりませんわ。弱いし、屑ですよ。それで良いんです。今の僕の目標は、ただあるがままを身体に染み付けることです。自分を自分のまま過ごせるように廻していきたいです。本当に自分が得たかったものを思い出しながら、自分の出来ることを身につけて、綴っていきたいです。

 

魔女の宅急便で書こうとしたものを忘れていたから追記を書こうとしたわけです。魔女の宅急便は、ある程度、キキの状況を俯瞰できるものが書いていると僕は不完全な視線で考えます。働きに弱い僕、都市に行かない、なにをやっているわけでもない僕には分からない、分からない。足りていない。まだまだ足りない。しかし、分からなくても出来ることをただやるだけとか。自分の生き方? いやいや。今をバシッとやるだけ。キキは自分の浮き沈みにより、たった一つしか持ち合わせていなかったアイデンティティが破壊されたように感じて落ち込まざるを得なかったけれども、縋る他ないキキだからこそしょうがない。絵描きの姉さんの言葉は非常に感銘を受けざるを得ない言葉だが、なかなか俯瞰なんて、そんなの老人、死人の言葉だからね。関係なく、なんて言えない。僕も分からない。それでも静かに呼吸して、掴め! 地上へと落ちていくトンボを間一髪掴んだキキのように。

 

 

更に追記

人間ってくだらないと思う。意味がない、そのような言葉は限りなくおそまつな言葉。しかし、全ては生物。ただ存在している。存在が動いている。吐く言葉は全てその時の気分。しかしなにかをあなたは感じているはず。何であれ。
良いとか悪いとかくだらない。今の僕の上に言葉は乗っている。下にもある。今の言葉を話さなくても、今の言葉が存在していることを誰も否定できない。それでも、言葉として、思考として、感情に引き摺んだ言葉たちが僕の頭の中で、実生活で生きにくいくせに、あまり何も得ないようにダイヤルを回した。更に言えば、この言葉もまた何の特別さを帯びていなく、それでも僕が話さざるを得なかった。そこに意味があるともないとも思わない。
わかりきったことと離れて、わかりきったものが死去したとき、わかりきったものを僕は、行う事が出来ず、わかりきったものの上での僕では破綻する。わかりきったもの、それがなければ僕は生きていけない、僕はとてもとてもそれが好きだったのだ。
あることあることあることを言葉にする。ないこともまた。僕の言葉を、言葉を。あるものを並べる、ただ綴る。そのように生き方を作り変えていく。