卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

人の味

私は一体なにが出来るというの?
同じ場所、時間に囚われている私はいつまでも同一の行為、思考を繰り返す。
私という生物について考える。
私は、私の世界以外の行為と出逢えるはずがない。
私は世界、人の集まりに嵌められて呼吸する。
他人の中の私。
私は私の頭の中で暮らし。
私という生物の仕組みをあまり理解していない私。
私の全てというのはいかほどか?
私の全てほど、易いものはない。
僕という生き物の意味、出来ることはいったいなに?
僕が知っている行為なんて、どれほど知り得ているのか?
私は私の行為を立てていき。
私は私が暮らす街で毎日起きて寝る。
一体なにがあるというのか。
なにもない気がする。
全ては私の認めた通りに私の周りは廻っていく。
傲慢ってなんだろう。
認めているくせに、変な感情を過去に積み上げていくから、傲慢か。
頭の中で暮らしたくはない。結局生活って奴はどのように廻してもひっついてくるし。
僕は僕の認めたことに基づいて生活したいな。
成長主義者かどうかなんて知らないけれど、どのように生きても、私は私の域を越えられないことは知識以上に少しずつわかり始めているから、だからね私の認めたものに生きていきたい。
僕に現実は遠かった。世界の認識以降をものに出来ていない人間だった。
自分で積み上げていくほかない。どのように積み上がっていくかなんて知らないけれど。
僕は僕に生きるさ。今日もまた同じこと言って、明日にいく。
いつも一緒だ。話すことは変わらない。だからこそ、示すこと、私を示すことに気を配って生きていく。
また明日と、今と、そのような話。
私じゃどうすることも出来ない。ならば、どうして見えてしまったの?
世界の何処に私が存在しているかというと此処しかない。
明日にいきたい。明日にいって眠りたい。
何もかも少ないけれども、それしかないから。
眠る。起きて、泡を吐く。
僕は生きています。主張出来ません。
人と共に生きるには遅く、ゆったりで、なにも足りていません。
しかし生きているようです。生きていると聞くと、生きていると言われます。
僕には生きているは遠いなんて話せません。
僕は生きているのだから。生活しなければならないのだから。
僕の身体に時間と感情はみちすぎた。
子供と思春期と鬱屈の羊には花束が空から降ってきます。
私にはもう花束は降ってきません。花束は花束を胸に抱え過ぎたものがその世界から降らします。
私は花束をどれほど持っているのか知りませんが、私は私の位置からなにも考えず形を崩さず胸からゆったりと花束と呼ばれる感情を言葉に込めて離します。
私の言葉はいったい彼らにどのような姿を示すのでしょうか。
あまりに人間には足りなさ過ぎても、生きることを続けられた私の言葉の力よ。
私は私以外に縋るものはないのです。そのような言葉を吐かなければならない。
私に私に生きて私の人生に私を垂らす。
私は私に垂れて死にたい。
此れは嘘で、でも本当になると思う。
本当になれば良いんだ。生きるものを感じられれば良いんだ。それが良いことだと思うんだ。
っていうことでまた明日。生きていれば会えると思うよ。死んだら会えないね。それは仕方ないね。では明日。良い今日を迎えてね。僕は迎えたいからね。では。

…とのような記述を残していたかたちではございますが、お話上手になりたいわけですし、今の感慨を此処に残しているとなにか将来あぁあのときはなんてよい感覚を私は持ち合わせていたんだ、僕はこのような記述で満たされた私という人間が好きだなぁと一人自室のタブレット端末にてふふふとほくそ笑むことが可能な為少し書いていこう。変化の間の記述こそが世界を美しく感じる第一歩ではあるまいか。もちろん此処ではなく私のノートに書く事もありだが、やはり私は私の生活というもの、未来今人権倫理といったものを切り売りして生活していこうと少なからず決意の念という嘘の出っ張りが私中に満たされている為此処に記述するのだ。自分のノートに書けるほどの世界観に私は生きていない。今の私は社会に出ること、いや昔から言葉を漏らしたり誰かの連続の中には立ち続けているだけでなにか成し遂げている人間だからこそ個人的な話の理解としては日記もまた此処で行なっているわけなのだ。もちろん他者の虐げには耐えられる人間でもない。

 さて私が自身で感じる何を書くかというと。四年か五年か引き篭もりという名に似た生活を送ってきたため、少しずつどうすれば私は私を認めながら生きていくことが出来るのだろうかと考えながら、生活しているわけなのですが。私というもの、かたちという人間は引き篭もる前は自分には帰属意識というものがないみたいなもので悩んだ振りをし続けていたわけなのですが(もちろん自室だとか、誰にも目に見える阻害されることなくされど生きるに支障がきたさない私というものが一つの属した私)、四、五年自分自身というものを見ることを拒否して今もまた見ることを半ば拒否している自分自身だからこそ、自分だけの軽く見えるもの、考えるくだらないものはあります。

 僕は自分は生きていないということにしています。しかし肉体も心も今の連続に侵略されているのは自明の理です。僕は21歳です。子供のコミュニティーに入ると奇っ怪な目で見られる大人です。かたちは人の言葉の連続に生きることを嫌い、外と思った自室にてこうべを左右上下宇宙空間にへと振り続け、なにか世界が、私が生きると思い込める世界が存在し、立脚し、生きていられば良いのにと考えていたのですが何も変わるどころか、せめての行為内以外に何も存在しない社会の劣悪と呼ばれる身分に自ら陥れようとしているだけのようです。その瞬間はいつ訪れるのでしょうか。いつ訪れてもおかしくないようです。

 僕は小説や漫画やアニメや映画や絵に何か自らの夢を咲かす空間が存在すると考えていたのですが、それもまた生きる空間のようです。そう、生きる空間!

 人が人と繋がり、人の言葉を話し、人の感情を吐露し、なんでもない此処にいる私の行為によって傷つけ犯し喜び笑う空間。

 四、五年の引き篭もりからどうなるのかは置いといて、何か見出さなあかんなぁ、暮らせんというのは怖いからなぁと考えるかたちの視点はそういうの。人しかいないよ、雇われるっていうことは! 人と共に暮らすっていう視点ならば!

 なんか今日コトリンゴさんだったかなぁ、まぁ一人のお話ではないんだけれども、母の精神充足みたいな意図あいをつけて飯をたかるかたちさんは車にとことこ揺られながら車内流れるラジオを聞いていたら悲しくなったのよ。素晴らしい音楽、私という生物の維持の連続、如何であろうとも何か連綿と何かに成り立っていくものしかない、其れが人間の社会で生きるというものなのに、自らにより創設に至らず、他人が作った飯によって食わされる連綿とそうなろうと考える俺を考えると悲しくなった。絵も文も言葉も音楽も楽器も行動も政治も倫理も感情も人間も何もかも存在しない俺にとっちゃあ人が為す社会は皆んな、やるだけで間隙の虹色。それなのに、世界はそうではなく、人の連綿の中で何か私を決定づけられる。私の内面の美しさなど、多くの人の内面の連綿の前には無意味だ。皆んなそういうものは当たり前に備えているから必要ないんだ。そのことを考えると何か自分という人間は本当にしょうもなくて、あぁ世界ってそういう仕組みだったんだ、って21歳の人間として日々気づいていく。私が認知可能な私の周りの世界の仕組みをどんどん理解していって、俺もまた自分で可能な自分という個の仕組みとして人々の網の中に上手く入り込んで、その世界で喜怒哀楽を発揮して、老化と共に自分の全てが減衰していって、人が死ぬことが当たり前の世界に立ったとき、死ななければならないことを理解して、認めて死ぬんだなぁって以前とは違う感覚で世界の仕組みを感情込めて語れるようになった自分は一体何になりたいんだろうなぁと考える。皆んな一人一人なりたいものがずっと永遠にあるけれど、其処までに自身を立脚することは大変で、大体の人が幼児、児童、思春期、青年として生命を送り続けて死ぬんだなぁと考えると、俺はそうなることが嫌で、俺は俺の地域になることが嫌でこうやって引き篭もだたんだなぁって確立しない言葉を吐く。僕が僕自身を語れるなんてまだまだ早い。正解なんて理解できる年頃じゃないんだから。

 僕は僕のことを何もない人間だと思う。全て始めるだけで全てを為す世界にいるんだから。でも、それでも何か自分のやりたかったことを思い出しながら、熱中して大きな柱を自分の中に立てて世界に立脚できたら良いな。それで、小中時代の今や繋がりのない彼らやお世話になった先生や家族やその他もろもろに僕はこうやって生きてきたんだよって教えられたら良いな。僕大好きだったんだ。僕のあの時、町に二つしかない小学校が一つになって平日毎朝バスでとことこ運ばれる一年と重い荷物背負って三年間、計四年間のあの時の感情がさ。

 まぁ今はとにかくこれ以上は書けないね。書く感情がないからね。ちょっとした思いをものにしているだけだからね此の場所。私の続きはまた今度だ。いつかか知らないし、誤字脱字とか見返すことなく僕は此処でまた事実の連続に戻れるけれど、明日は晴れると良いね。感情もなくそれだけ。では。

 

 

 

 

 

 

 

読書するので、当分の間ブログ更新しません。生存は読書メーターでの本登録と感想のみでとにかく読書、小説を読もうと思います。今はまだまだ本を読むに足りていませんが、少しずつ読んで、書けるようになる為に。

ということで暫くお留守にしますので、皆さんお元気で。時々他のブログさまを拝見するだろうから、そのときはよろしくね。では。(とは言いつつもなにか書きたいことあればなにか書くけどね。全然定まっていないから)。

俺の書いているのは小説ではない。小説っていうのは自分と向き合えている人間が書くものだ。最近になって出版社と呼ばれる存在を通して世の本屋に並ばれている小説という類を読めるようになったかたちは何もかもよく分からず、分かろうともせずに日々生きている。自分は違う、此処に生きている必然性をなんの浮いた感情もなく書かなければならない為にかたちは特に好きでもない小説を読んで、その書をまとめた彼らの人生など私は知らないが、自分は引き篭もりで世間知らずで傲慢で人の縁を軽んじて全てを舐めきっているから小説と呼ばれる類も世間で生きるを実行し続けている人間も嫌いと言ってしまう。思ってしまう。
でも、俺は好きなんだよ。俺は人の人生なんて知らないから、言葉も交わさないし、交わそうとしないんだけれども、実際には素敵な人はたくさんいるらしいんだね。ネットと家族と高校のカウンセラーの先生以外に何の交流もない生活ぐらいしか自らの様々な囚われで出来なかった私には分からないんだけれども、素敵な人はいっぱいいるらしい、あぁその一つ自分に間を空けた死んだ知識を俺は死ねと呼んでしまう。
人には理由があるんだ。俺にもそれを為した理由は全てに存在する。なにかがあったから俺は書けないながらにも小説を書いているし、小説家としてデビューして金稼いで、楽になりたいんだと考える。人生上がって自室に籠もって死まで揺蕩い続けるんだかたち。
なにか親を大事にする話だとかあるけれども、俺は親は大嫌い。父は家から出ていったし、母は大嫌い。母に食費代と寝場所とストレスと様々な家事の負担を掛けているけれども俺は大嫌い。そうして、じわじわ苦しめて、俺が母の役目を与えていた祖母にストレスを与えて寿命より早死にさせた母を早死にさせるんだ。そうしたら誰も俺も捕まらずに、犯罪を犯せるだろ? 俺一人で良いじゃないか、罪を被るのは。母も俺に殺されたって夢にも思わないし、これはもしかしたら、母と同じことをしているんだなぁ、母も昔自分の両親にそのようなことを願って生きてきたんだろうなぁと考えるとなにか思うか、かたち。今は何も思わないね、今はね。
家族を大切にしなければならないし。キャピキャピしたやつもしていないやつも社会性の線を通している輩の言葉を否定、拒否すれば俺みたいになる。俺には何の言葉も想いもない。感情も存在しない。全てあぶくを越えないんだ。その領域で腐って、田舎の誰も注視しない川にゆらゆら流されて消滅する萎びれた茄子なんだよ俺は。
俺は自分を救いたくて小説を書いている。もっと私のまま書き続ける機械に。自分自身しかいないんじゃないか。俺が認めれないものは認められなくてよいんだよ。俺を認めてくれるもの、俺が認めるもの、それだけしか生きられないんだから、俺は其れになる。それが人の道って話。
今みたいに否定と虚無と苦しみ、自殺としか述べられないのが嫌だから、そういう奴の輝きになりたくて書いている。自分みたいにいけなくなった奴のために書いている。俺は書くならば輝き。肯定の嵐。否定もする。肯定の嵐。否定もする。
全部自分のため。俺は生きる。

人は自分自身以外とは出会わないという前提。
生まれたときからかは知らないが、被害妄想かどうかも知らないが、私の人生に於いて私の感覚では生まれてこの方(引き篭もってからはどうか分からないが)私の人格への攻撃など当たり前すぎて、そこら辺の感覚は麻痺しているのかもしれない。一人の人間としては、私よりも苦しい体験をしている人間がいるのだから、私は声を挙げてはいけないみたいな感覚で生きてきて、そこら辺の、色々な攻撃で受けた精神疲労は溶かすことが出来ずに、高校生時分の私の言葉を借りるならば、私の心の中の一つのコップに水は溜まりに溜まり、もう溜まらない。少しでも負担を掛ければ直ぐさまコップからは水は溢れて私は苦しみを訴える。もうコップから水は引くことない。負担は延々と外へと吐き出す他ない。
私は柔道の先生、母、父、塾の先生で心を締めつけていったのだろうが、こういう話は何処にでも有り触れているのだから、どの子供にも親がいて、それぞれに悩みと苦しみを抱えているんだから、私は特別になって、心配なんてされるわけがない。私はなにか特別になろうとしていた。祖母はいつもなにか人と違うことをしなさいと述べていた。私はなにか特別になろうとしたけれども、それはなるものではなく、勝手に落ちていくものだと知ったのはつい最近のことであった。まともな人間は僕の周りにいっぱいいたのに、自分の視線が悪いからなのだろうか、私が自らなにか語ろうとすると神経が入れ乱れた恨み節以外しようとしない。私は口を動かしていなかった人間。口を動かすことは重要だ。もう私には言葉はなく、ただ脳だけで話すふりを演じている。いつも、人を傷つけない、私を傷つけないために言葉を探して述べているから、なんの力も持たない。私は19歳で死んだ。そう思っておかないと、なにか気が狂ってしまうのかもしれない。自分は自分を知って何もかもから逃れた。いやでも生きている。私は私の感覚からは逃げられない。私が生きていることから逃れられない。その情欲に縛られて生きている。それ以外は知らない。

自身、自信。裸でガラスで彫刻で無表情で表情豊かで美少女動物園で私は私ではなく私であること。
視線を私はなくすこと。
私はもう何の不安を頭に孕ませようとも身体に張り付けず生活。
人は同じものを孕まなくては其処に存在できない。
私は私と友達。
身体に孕んだ君に乾杯。