卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

雑記

判断とは如何なる方法で為されるのか? 瞬間当たり前を選択。ならば当たり前とは?

せかいにはなにもないが在るが存在しようとすると確かに其処にしか存在できない空間があって。擦りもちょっとしたずれみたいな感じで引き起こったものだろうがそういう空間のずれ。そういう起こるに至った場所に在れる。在るが存在する。

選択するなんて烏滸がましい。とにかくやって幅を知らなければわからない。存在の程度を知らなければわからない。程度の尺をしるのだ。

在るか無いか。ただそれを選択していくだけ。なにがどうとか連続性とかそういうの小ちゃい。選択なんてできない。ただ在れる絶妙な場所を探し続けるため動き続けるだけ。


結局まだまだということ。なにもわかってすらいない。そのことを解っていても止めちゃいけない。止めるとわからなくなるから。進むしかない。蠢くしかない。

今の瞬間の居場所は今だけ。嘗ての居場所は嘗て。それを解ってなお総て吸収し今をただ見つめ程度を知らなければならない。在れる尺を知らなければならない。やっていくのはそういうことだ。

在れるためには当たり前なんかじゃ無理。誰かが嘗ての当たり前はその瞬間の今。いまは違う。ただ在る。その空間をただ探って程度をしって。そういうのなんとなしにやっていく。選択とか判断とか駄目駄目。ただやっていくだけ。

感覚というものをしっかり知ってなお一から構築し。今もまたただどこまでで生きていけるのかだけを知って。

瞬間の連続の末とその選択の誤りによる罰を受けてなお存在している。その感覚は大事だし総て知るというのは苦難では在るがそれでも一から知らないと結局歩けないと思う。いつまでもその時だと思う。ひとはいつか歩かないと在られない。だからこそ。

繋いで今にするだけ。其々で。