卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

こころ

一日一文

わたしは思います。どうしようもなく当たり前に日々に囚われて泥のなかにまみれてしまうそれ自体を駄目だとか良いとかそういうものは全くもってことばにならなくて。結局は出来事が絡まないなにも起こらないという位置にいるからこそこの考えがかたちとして現れるのでしょうが。それでもわたしは悪いとはいえない。ただただ日々。これが人間だと感じるようになりました。ただいまを生きてなにかに囚われそれを壊すことができずいまを重ねていって他の誰にも知ることのないただひとり、わたしというかたち。もうそれは絡んで絡みあいそれになるしかない必然性の絡みあい。だからなにもいえない。それはもうひと。個人。とてつもなく悲哀と虚無。これが人間だと。
「個人があるのは当たり前だ。その上であなたがなにかを掛けるということなのよ。ようは」
生きる。生きるってやつはそうなのだ。生きれないものの叫び。当たり前のように並べられるショーケースの中身の目の引き用は畢竟個人の上での固められた尖りであろうが。だから個人をひたすらひたすら固めて固めてぶち壊し当たり前のわたしにしていく。
生きられない。生きられないが前提としているせかいでは自らがないということを認識してから勝手にてきとうにまみれてまみれてわたしを創っていくってのが本当になっちゃうの? 死んだやつ。死ぬしかないやつ。わたしが殺したわたしの想い。わたしの当たり前。そっからわたしはどうしようもなく嘘でありそれこそが本当であって、もうそりゃあ生きていないと同義じゃないの? 酒を呑み女に溺れ惰眠を貪り続ける。死んだわたし。もうとっくに死んだ。19で死んだ。でも生きている。生きてしまった。超えられていないのにひとは生きている。そうしてどう球は廻っていくのか。この感情は別れ離れ塗れ合成し多々に別れてきたのであろうが。それが果たしてどう散り散りせかいで癒され陵辱して溶けていくのであろうか。溶かされることのない想いはどうやって溶かされていくんだろうか。それに耐えきれなくなったときわたしたちは大地の震えに主を求めてしまうんだろうか。生きている。生きていない。それでも意識は残されずっとずっと嘘を生き続ける。こころ。それはわたしっていうかたち。

すべては妄想であろうがそれがないならば存在できない程度のわたしたちであるのでまあ吐いて吐いてさあ吐いて、それでなにするはっけよいかのこったか。
誰しもどこかで定まり囚われ逃れ逸らし生きているんだろう。自分勝手な文を拾いあほ解釈して勝手行動の末溶けていく。定まっていきます。総て想像だろうにそれでしかいられないんだよ。身体は気触れ気触れて手の感覚を識るのだから文もまたそういう感じのもといきているのね。まったくふざけたさかなだよわたしってやつは。
それでもそれでもそれがわたし。わたしのかたち。自分がとてつもなく毛嫌いしてきたびちゃびちゃ嘘的文字並べはなにか他のところに宇宙船よろしく不時着も不可ってところだと思い、僕が少なからずわたし、わたしって思えるのはこういうものだろう。わからんしてきとうだが。腹水の盆のなかに生きているこの語りをわたしは少なからず良さを感じたのは事実である。本当だ。たぶんな。では。またね。