卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

道に触れる君

一日一文

人と人の会話に動物は混じらない。彼らは歩き飛び泳いで人の周りに存在して時に触れる。見たり触ったり逃げたり。時と場合で色々と。

人の道は齟齬をどんどんと失くしていこうとするがアスファルトの隅からは植物が出てくるしムカデは大量発生している。傲慢と適応とのバランスを尽くしやっていなければ存在できないし消える。だからこそ適切が求められるのだろう。生きるが当たり前だから、傲慢が当たり前だからその上で何をするのかと言うことだろう。
昨日電車の窓から風景を眺めていると住宅地に猫が歩いていた。これは至って普通のことだけど人の道と決められた場所に認められた生き物が当たり前に存在するのが突然不思議なことだなぁと感じた。
猫に祈りの対象は似合わない。鳥は届かないあるかもしれない世界の架け橋として祈りを授けられるが猫はどうなんだろう。不思議、奇妙。歪な世界への招待状。地続きだ。ふと視線を変えたところにドアが在る。君は開ける。其処は死を呼び君は骨になる。それでも生存を許される。猫は生命など毛糸玉のように転がす。みんな纏められて誰が君なのかわからない。そうして骨は世界に帰る。ドアを潜った瞬間何もなかったように君は其処に立っていた。白昼夢だったのだ。其処にはドアはなく家と家の狭い隙間に猫が座っているだけだ。その鋭い目つきをわたしに向けているだけだ。
僕の地域には捨て犬が一匹歩いている。僕が自転車でバイト先へ適当に漕いでいた時に彼はいた。切れた首輪をつけてその目は疲れ切ったまるで自分を見ているかのような表情を浮かべていた。動物に表情などあるのかと知ることのなかった僕はなかなか興味深いことだなぁと感じた。そういえばこれまた僕の地域の牧場と言っていいのかわからない牛を育てている小さなそれがあるのだがそれは中学校の横に在り時々そこで飼われている鶏がこけっこ叫びながら世間を謳歌していることがあった。そんな所にも犬がいて通りかかる度に犬様が叫び怖いもんだなぁといつも身を潜めて通り過ぎていた。そんな犬様が五匹程度先日通りかかった時に見ると見事に横に並べられていた。一匹ずつ区分けして置かれているのである。全くもってでかい犬は怖いなぁ、嫌だなぁとしか感じないわたしではあるが犬と猫に関するうんだらたを知識として挿入された(ふと前にネットでちょっと取り入れた)わたしは彼らをじーと見つめた。すると面白いことにひたすら悲哀にくれてその果てに虚無を謳歌している犬あればとにかく狭い範囲をこれ狭しと派手に動き回る奴もいる。と思えば忠犬ハチ公の如くただ行儀よく座っているやつがいる。あぁ犬。君も人だ。変わらない。何事も変わらない。僕がそうなったとしても一緒の反応をとるだろう。少しの済まないだ。認識が薄すぎた。深くまで侵食するには君達との付き合いは僕には薄すぎるけれどこれからはもう少し注意深く見るよ。約束だ。間違いなく。
野性にしても何にしてもとにかく何百年も人が過ごした場所に不適切なものはなかなか存在しない。隅に生える植物にしても大量発生のムカデにしても道を迸る車たちに関与するには至っていない。いつか届く日も有るだろうが、嘗ての震災で家の強度が上がったみたいにね。だからこそ存在する野生にしても人にて語られる彼らは最早何も道に影響しない役割を背負ってそこにいる。邪魔ならしっしっと追い払われる。もちろん鳥にしても植物にしても対策は講じられてはいる。その中でも何とか存在し続けている。今日窓の外に鳥が飛んでいた。ゴキブリはほいっほい歩いている。魚はため池で潜むように泳いでる。そうやって不思議に密かに彼らは存在し続けている。存在し続けるためには細かい対応を主にしては生き残れないだろうが人の存在にせめぎ合い侵入して存在し続ける。人が傲慢に適応し侵食していく道に彼らも傲慢に適応し侵食していく。私たちには私たちの道があるように彼らには彼らの道がある。道はなかったからこそ無限に存在しておりどう歩めるかはその道を往くものにしかわからない。だからこそただ歩み時として触れる彼らには奇妙だと不思議がるのが丁度なのだ。道はそれぞれのものだから触れ合うことができる喜びを時として感じましょう。まぁ余りに道が似合っていたら叩き合いの道を進むことになるだろうがね。まぁそうして道は出来上がっていくのさ。確かとしか認められない固く冷たい道にね。うん。