卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

実証するねこ

一文

言葉を辞書から借りてお話しする嫌な子どもにねこは寄り添う。其処にはおいしい言葉があるからだ。保護的観点から言葉を与えてしまう子どもは辞書なしじゃ生きていけないからだ。
ねこの身体の中には言葉が詰まっている。好みの言葉で一杯だ。嫌いな言葉は知らず人が話しかけても偏り過ぎた言葉に頭を傾けるだけだ。
「にゃーにゃー」
猫はいつしかにゃーにゃーしか鳴かなくなった。昔は人の単語を乱雑に並べるぐらいの芸を見せていたらしいけれど今や時を重ねた猫に誰も意味を見出せない。思い込んで猫の腹を撫でる者だけがまた猫に言葉を与えている。
『知らない・チラシ・他律的・ドルトン先生・イチローさんの牧場でイヤイヤヨー』
猫は此方を見ている。辞書を喰っている。音を。意味を嗜んでる。
「猫は確かさだけを身に包んで後は何もかも知らないそうだ」
物知りで有名な廃れた公園の主がある時砂浜に寝そべりながら言った。其れは彼がいつも話している脈絡のない言葉の垂れ流しのうちの一つでしかなかったけれど妙に印象に残り今私が引用したわけだ。
そうである。猫は確かさだけを身体に包んでいる。その瞬間だけを生きている。私が辞書を床に落とした瞬間からあのトラ模様の気の弱そうな猫は何処かに行ってしまった。そもそも、最初からいなかったのかもしれない。私なんて認識していなかったであろう。
所でそんな辞書から身を引いた私であるからと言って猫と出会わないわけではない。道行く猫は此方をじっと見る。私がみているからであろうか。気づかなかったなら見ることですらしなかったのかな。だって私は辞書を持っていないからね。
だだっ広い公共施設前の駐車所で猫の集会を見た。一体何をしているのであろうか。例えば言葉の交換? そうでもなさそうかな。解るわけがない。だって私は人間なんだから。人間は猫なんかに構わず生きるべきだ。そう考えたから、もう猫はいない。辞書も持っていない。ただ自転車ゆったり漕いで生きていくだけだ。
「猫は私たちを運んでいる。世界に佇み、だから大丈夫」
母がそう言った。一体何に大丈夫と言ったのか判別が出来ない私には難しい。
「明日色々知ってから解るかもね」
そういうことらしい。明日を迎えたとしてもそう人間は知れないし解るわけはないだろうが母はそういう言葉を好んだ。
「たま。たまは何処」
猫を探す女の子が道を駆けていく。見渡しが悪い住居達の間にいるであろう名称たまを探すことなんて無駄だ。猫は気まぐれだからほっとくほかないんだから。
「でも私もそうだったんだろう」
気まぐれって勝手な言葉で猫を形容する老廃した青春時代を経てもはや遠い猫と私では在っても其れを知らないときは恋しいとき側にいないトラ模様の猫を探しに街を駆け巡ったものだ。
「にゃーにゃー」
目の前に猫。道の上に猫。トラ模様ではない猫。お魚咥えた猫。
「たまか」
「にゃー」
そうして猫は駆けていく。家と家の間の路地を駆けていく。
「猫は私たちを運んでいく、か」
知らないが辞書を落としてもこうして出会ってしまう猫に私はこう思う。
「猫って不思議」