卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

私によくありがちなこと

一日一文

他人の煌めきだとか美しさだとか素晴らしさだとかそう云うもの、自分の持っている其れとは違い、自分の積み上げではなく他者の自分の積み上げを、色々な要因で視点が私であるため、絶望。
「そう云う話ではない」
実を言うと君は君を積み上げていた! 他人もただ自分を積み上げていた! 全くもって別の領域を自分と認識する君がいると言う話。他人を自分と思い込む、そうなってしまった君が其処にいた!
ってな訳で自分の積み上げていたもの。生きるを埋めてきたもの。まぁ誇れるとか良いとかそう云うお話ではなくただそこにいる私の話です。それしかありませんでした。いつの時代も。
生きる必要な感情、領域をどうやって贖うのか。ないに等しい生命線と耐えさせることが人其々の生き方。
「きもちわるい」
其々の尺度と角度できもちわるい生きるに必要な感情、領域。
「まぁ認めることを後から見ればあたりまえに出来るって言う話。その時にゃあ泣いて喚いて破壊する日々だったろうにね」
殺すとか壊すとか燃やすとか事実目の前の出来事としての対峙は何らかの変容を確かに示してくるが。其れらは余りにも当たり前で(比喩的な意味合いでも)だからこそ生きていくのならば、生きているならばそれらをどれだけ別の意味、宜しい意味、笑えて、泣けて、嬉しいみたいなものに変換、自然になっちゃうっていうのがなんかいい人になるのかな。
「服の着せ替えがお好きなかたちだ」
そう言いながら常に同じもさっとした服を着ているかたち。
「満たされぬ欲望」
どうにしても果たされる。道があり。不完全にしても半端にしても。そしてそれが人格になるのかね。いっぱい人がいるから其々がこの世界の何かの表現となっておられる。そうであろう。
「未来に描いた、描かれた夢をあなたに思い描いています」
また別の欲望っていうか尺度が必要なのかな、認知できる何か、認められる何か、そう云うものに気付き、気づいても確かだと言える、そうであるべきだ。
未来か過去か今日か明日か知らないけれど様々なその時の尺度で何か色々と嵌められていきどうにか一つの身体に耐えられぬ負担を吐き出し次第に含まれた私は何かの線をまた何処かにて表出していくって訳だ。
「生きたい、生きる。それって嘘、嘘にするしかないのは昨日の話だろうけれど」
生きるという言葉を良く口にしている。私は生きていないとか生きられなかったとかそんな関連。そんなわけがなく今日も息して飯食い良く寝るかたちではあると云うのに。そう云うちぐはぐさはまぁ全くのどうすることもできなかった成せなかった何かの方便。お札みたいなもんだ。そう云う不自然な言葉を自身に残しておくことで残っていると云うことでなにか不自然なる不全がそのものにはあったことを端的に示している。そう云うお札だらけな私。色々なものがお札を身体中に貼っている。
「お札だらけな私だが。このお札も最早私と言っていい」
どれだけの今を越えられるのか不明。どれだけも越えられぬ不思議なことだから衰えて吐いて死んでいく。お亡くなりになる。それまでお札の上にお札を重ねて様々な今を重ねて生きていく。越えたとした今と越えられなかったとした今と無視した今と様々を重ねて生きていく。今もまたそうやって勝手なるおひととして生きている。
「お札が欲しい。あなたのお札が美しい。美しいんだ」
またそうなる。そういうもんさ。ただのお札さ。また明日何かのお札になっていくでも私の身体には貼り付いているお札だ。まぁ常々今を生きているから考えなくてもいいけれど、だって身体に張り付いているんだからね。そうだからね。