有名な人々

三年後、三年前を振り返り、笑った、僕。

庭に掛け時計

事物

久しぶりの投稿です! その綴りには一体どのような感情が組み込まれているのでしょうか! 私には分かりません! かたちには理解できません! 其れでも綴られていくようです! 理解不能です! 頭がたこ焼きの生地の中に入りたこ焼き器の穴にてピックによりくるくる回されているようです! 不可解です!


時計の話です。下手な不可解な掛け時計の話です。時たま出会う屋外の掛け時計の話です。篭りな私の視点による屋外の掛け時計への下手な傾注の話です。興味ある人は聞いてくださいな下手な話。下手で不可解で掴みづらいようでしょうが其れがわたしことかたちですのでそこら辺でまぁまぁって感じでね、読み進めていってください。

中々話したいって剥がれた視点に引き摺り込んだ場合馬鹿に思い込む私は存在するわけで。感じてしまっただとか当たり前のように落ちていて、知らないうちに感じて忘れるようにするのが日々の暮らしって奴だけれども其れでもその域を超えて生息する輩は出るもんで掛け時計の話もまたってこと。
時間という地球は日本のとある田舎の町にて弛んでいるかたちであっても様々な色々なものの末に如何してか生きていくに当たり前に付随する其れを知ろうとする為には現代人であるかたちは太陽、水、砂等の原理を擁するはずもなく腕やスマホや壁等に備わっている時計をみる。現在進行中の時間は2:13。所謂深夜って奴だな。如何して起きているんだろう。感情が篭ることなく記すかたちは柔らかくないベットの上に備わっているよ。そんな話だよ。
時計。僕は好きだよ時計。特にさ目覚まし時計と掛け時計は好き。なんか下手な感じがしない? 不思議な位置に存在するような気がしてならない。止まった時計だとか動いている時計だとか二、三分ずれた時計だとか。デザインも場所も違う。其れなのに一つ一つ時計に託されたものが違う、下手な残滓が感じられたとき僕はなんというか立ち止まって時計を見てしまう。此奴はいけないことなんだよ。いけないことをいけないって思ってしまうこともまた何か大切な観点に於いていけないことなのかもしれないけれど。其れでも事実。勝手な思い込みの事実。目を逸らせば瞬間下らなくなる当たり前に私は囚われる。かたちになる。言葉が存在する。君が存在する。
世界って今述べるならば其れはもう時計もカレンダーも映画もアニメも祭りも何もかもが子供のおつかいで当たり前のように並ぶ看板のように商品と挨拶だけと接する存在で居なければならない。それ以上の域は危険だ。世界ではなくなる。生きるではなくなる。下手な叫びと苦しみを味わい勝手に馬鹿げた踊りを展開する私は存在することになる。
そしてある種篭りである僕もまた享受した部分は存在するわけだ。常日頃当たり前のように存在するようにみえる世界への不平だとか疑問を述べる私であっても其れは享受絶対的不可な案件であったり不可な位置に近い案件なだけであり何を述べず思うこともなく受け入れてものにしている世界の看板はいっぱい有るわけだ。其れは自身を捕らう今となっては言葉にすることも出来ないものであったり。そういう所を突かれると時に泡吹くかたちは此処に存在するんだろうなって気がするよ。本当だよ。
そう云う話。駅前からちょっぴりはずれた道の空いた車道を横切る歩行の私は駅前の広場に備わる時計が目に映る。其処までには様々な看板や人や鳥の声等が存在して認知して其れでも通り過ぎてきたというのに私は時計を見る。別に何か大事な用事に囚われていないこの瞬間、時間なんてどうでも良いだろうに。車など付近に存在しないかたちは辺りに示された駅前広場の時計を見つめたまま動かない。もちろんふざけたかたちにはクラクションか死に繋がる衝突がすぐ目の前に存在しているのは自明でありもちろんかたちさまも分かっているので車の気配が有れば直ぐに端の呼吸しずらい歩道へ飛んでいく。今はまだその時ではないしその場所と駅前広場の時計が余りにも嵌っていたからこその下手な行為なわけだ。其れは重々承知なかたちであった。
別にどれが良いという話では有りませんけれどかたちって奴、私って云うものがどのような立脚のもと存在しているのか常日頃の時たま考えてしまう私とかたちだからこそ思ってしまいます。別にそのようなものなんて色々を孕んだ世界にとってはただの符号であるのにその一部分として存在する私と云う名の中の生命にとっては別の下手で歪んだものとして顕在してしまう。時の進行と一新を知らせる筈の時計がある時ある場所私の目を通して廃屋、埃と暗闇に混じって時を止めている現実が有るように。わたしが歩行する私が存在するが故のかたち。わたしと述べる私は此処に存在するがかたちは一体何処にて生きていると云うのだろうか。かたちもまた私と同じく当たり前の立脚の認知があってからの話であろう。そう云う現実のもと、様々なある瞬間に決定した認識のもと、自然に張り巡らせた私は此処に存在するお約束。笑えるだろうか?
話を繰り返しているのか進行に成功しているのか今この瞬間3:02分の私には分からないが時計もまたその話に存在する。全ては認知と立脚だ。当たり前だと定められた位置と私とかたちとわたしの認知。其れが君が何で有るのかをはっきりと正しく示す。そして生きていく。ずれる。ほんの少し歪んで正しく存在する。かたちと出会ってしまう。かたちに嵌りこんでしまう。
あなたは何処に生きているの? そのことを聞かれると私は言葉に詰まる。私は他の人と生息していると私で居なければならないから私として生きるけれどもわたしはそのことを当たり前として許容していない。そして傲慢もしくは圧倒するわたしでもなかった(いや此れもまた下手な意見だから違うね。自分の位置を理解して其処をただ生きるわけだから傲慢にはなれるし圧倒も可能な話だ。実を言うと)のでその時に通じる言葉を適当に被せておく。外から似せた言葉を私に与えておく。全ては無理解で勘違いでその場の正しさなど与えられる筈もない私であることをわたしが理解しきって生きていかなければならないんだけれども此れはまだ達成できていない話。依然ふわついた私は理解不足による愚痴と不足を満たす為の行動を取り続けわたしとして今話したことを理解できるまでただふわつき続けるわけだ。
今話したこともまたわたしと私に於いて本当に正しい(正しいに囚われる必要もない)ことなのかも分からないがそのことを私に於ける全てに適応させていることは事実のように思う。全て浮いている。そして浮いていることこそが生きるに於いて正しいことで有るような気もまた感じる。私の中にも正しいと思う存在はしっかりと存在するというのに自分では飲み込めず使えないものを飲み込んで操ることこそが生きるに於いて肝要なことと云う話をする私は何様であろうか。そして其れを理解したつもりで生きようとする私もまた、というね。
理解は足りていないまま言葉を連ねていく。その瞬間で理解できる縁というものは存在していて自分としてはその瞬間の縁までしっかりと水を浸すことが重要なのかなって今の生きるに於いては思うわけだけど其れが一体何を示しているのかは人生の先を生きている人や私より生きているって今の私が下手な言葉を重ねる存在は知っているだろうね。私も生存していくならば知っているだろうね。
時計ってあれでしょ? ステータスみたいな。かたちしってるよ。野球選手は筋肉鍛えすぎて着れる服が少ないから腕時計ぐらいしか着飾る部分がないんだって。だからお金を掛けて時間なんて最早忘れられた腕時計を買って付けるんだって。一杯お家にあるんだって。何十万だとか何百万?もする時計を幾つも持っているんだって。
そんな話が当たり前で。わざわざ時計の話をする場合それ以外に意味合いを持たない。結局なにかに於いて足りることのなかった残滓の結晶でしかないわけですよ。わざわざ、実在しないものを話す場合って。其れって其れって生きるに於いてなんなの?ってちょっと前に述べた私がこれまた繰り返すわけですけれど。ふざけている。下らない。馬鹿げている。何が正しく良いことかなんて知りませんけれどそのような言葉も存在するわけです。
止まった時計。一体いつ止まったなんて忘れましたからネットで調べると八時十五分。まぁ色々でしょうね。其れもまた色々な残滓、溶かしきれなかったものの発芽のせいで何億以上に存在する時計な筈なのに如何してか目を止めてしまう広島の原爆と共に死んだ誰かの腕時計。
そろそろ掛け時計を話を出来る時分かな時計を見ると4:12。書いたり休んだりトイレ行ったりお茶汲みにいったりうだうだしているうちに二時間程掛け時計を書いていることに捕囚されている私がここ迄に記した文字数は3625文字。中々に進まない当たり前の話。
私の家ではないけれど自分が暮らしている実家様の前に一つ掛け時計を掛けてみたいなってふとした瞬間に感じたわけです。なんか良いのです掛け時計。有ると下手な空間を感じられますからね。通学路の途中大事だったからね。どこかに時計が有ると其処で時間を確認して進むスピードを変える。実家の前は中学生高校生様が自転車で通りすがっていくから一つ時計を庭にでも携えれば良いものになるなぁと考えるかたちなわけです。
でも時計って庭に置いておいても大丈夫なのかな? 極たまにしか僕の地域では見ないわけですし(そりゃあそう)。
まぁ一つぐらいなら大丈夫だろう。なんて問題なく存在するであろう。
然し三つや四つ掛け時計が庭に遍在したがどのように思われるであろう。少々下手な家として認知されるだけで済むだろう。
ならば百や千と所狭しと庭だけではなく実家の壁という壁、果てには屋根の上にまで掛け時計が掛かっていたならばどのような処置を世界に繰り出されるのだろうか。そのような話一つぐらいは当たり前のように存在している気がするのだが。気になってしょうがない。
なんていうかこういうこと述べるがために此処まで文章を連ねてきた私だとすると少々辟易とするのだけども。其れでも掛け時計。下手な掛け時計な話だとか有れば誰か教えてくださいな。私と云うとありません。通学路だとか学校のおでこだとか校内至る所だとか公園だとかそう云う所にて傾注して時にずれていたり動いていなかったりで時に生きていることを示す掛け時計に愛おしく思ってしまうかたちが存在すると云う話だけです。それだけです。


「云いたいこと少ないなー」
「私の家にも掛け時計を付けよう。窓の外にちょっくら掛けても管理人さんにもばれない筈だ」
と云うような少女二人組の話が始まることもなく此処で終わり。掛け時計の話をしようと思っていた筈なのに自身の形成の話の方に力を費やして掛け時計の話は余りないと云うかたちクオリティーでまた今度な。ほなまたねー。4:34。