卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

『私よ、こんにちは』 サンプル

サンプル

  第五回文学フリマ大阪に出す『私よ、こんにちは』の序盤3文字ほどです。うら若きごく一般的な中学生男女がひょんなことで頭をぶっつけて自意識を交換してしまうお話。興味があれば是非。なければさいならって感じで。

↓ 次の文章から始まり始まり~。

 

 

江戸も遥かなる昔には城の一つは聳えていた古池町も今は昔ただの廃れた端の端に位置する零細町である。その町の中心部下手な食堂以外に何もなくとも町としては栄えた空気を保つ遠智野寺駅の改札口を出て目の前に見える「くすりのまち」と云うwelcome to HURUIKE と日夜示そうと「く」以外は夜中光り「すりのまち」と示している看板に構わず右へと進み利用率は低い整備された跨線橋へと続く坂を登り二つしかない客のいないホームを見渡しながら続く道をまっすぐ進みちょっとした林の向こうに現れた町役場になんて構わずに更にまっすぐいって下手な笹やクモ糸に掛かりながらも特に支障の無い下り坂を降り現れる階段を一段ずつ降っていってたどり着いた拓けた普通なる歩道もまた右や左や何もないが更にまっすぐ進みゃあ田んぼと田んぼ、ほんの少し向こうには森が見えるなんて当たり前な田舎風景に古池町立古池中学校のおんぼろ校舎が姿を見せる。此処までの所要時間は一体どれほどか計ってもいないが大体にして五分程度。中々に言葉に示して説明すると解りづらいことこの上ない。

そんな古池町立古池中学校。横にジャングルとも言うべき緑の篭りよう、なんとか整備されたアスファルト、木の枝が目の前に垂れて夜中この道を利用するには不気味な学校裏を迂回する道を通りすがってみると今日も盛況な青春を送る青少年少女たちの喚き声が響いている。全くもっての暑さと辛さに身体を鞭打ちながら自転車を漕ぐ二十歳を過ぎた様相の男は校舎に備え付けられている時計で時間を確かめる。彼は目が悪い為正しい時間など不明だが大体からにして時刻は二時も過ぎた頃であろう。そうすると喚く学生にはまだ暫しの授業に頭をクルクル回す苦行有り。ご愁傷様。彼も自転車を漕いで遅れそうな始業時間に間に合わなくてはいけないバイトの身分ではあるのだが。もう一度中学生になって毎日眠そうになる身体に鞭打ち勉学部活に励む優等生を演じることは考えられない。彼は振り向くことなく自転車を漕ぐ。暫しを経てチャイムの音が響いているのを男は聞きながら酸欠な身体に最後の鞭を打ち軽い丘を何とかして越えた。まだまだ道は続くと云うのに。

「暑い」

小学生にしても中学生にしても高校生にしてもまともな学生は田んぼの苗がすくすく育ち蝉が鳴き太陽が燦々と示す季節に気がつけば暑いと云うことが当たり前になっている。意識することもなく続いていく当たり前な言葉なんてそうは多くないのだから此れは大変重要な文化だなぁと言葉は洩らさないけれど額に汗を流し先生に頼まれた用事をこなしている二年一組室長川原勇吾は考えていた。

「本当に暑いなぁ」

隣にて彼と共に面倒な用事をこなしている二年一組副室長福原沙奈は時代に花を寄せる言葉をまた述べる。此れで三度目だ。

「仕方ないよ。夏なんだから」

六月ももう終わり。目を凝らすことに夢中になっていれば悲惨な赤いインクの血飛沫と共に夏休みが訪れる。例えほぼ毎日日が照り返し人を蝉の殻にしようと燃えに燃える学校のグラウンドで球弄りに熱心になる勇吾であったとしても時たまなる午後の休日や盆に訪れる五日程度の完全休養でたった一度しかない中学二年生の夏休みをエンジョイすれば良いだけの話なのだ。

「夏休みだね」

腕の上に何冊にも渡る本を抱え込みながら階段を一段ずつ降っていく沙奈は今後の予定表に刻まれた大事な事項を忘れようとしているので勇吾は教えてあげる。

「期末だね」

彼も極力考えたくはない話題であるのだが仕方ない。決定事項はどのような経緯を経ても逃げられない。その意味を噛み締める必要がある。

「意地悪な勇吾くんにはお仕置きが必要だ」

ようやくにして彼らが所属する二年一組の教室がある三階から二階へと続く踊り場に辿り着いた沙奈は抱え込む数冊の本を今降ってきた目の前の階段へとよっこらせと置いて一冊を最早二階へとあと一段な勇吾の抱える数冊の本の上に置いた。此れで勇吾が抱える本は頭の上を遥かに越えた分厚さで最早危険という他ない。勇吾は抗議する。

「僕は半分ずつだとよろけて落としてしまいそうな君を見かねて余分に持っているわけなんだ。其処にこの罰はいけないと思うぜ。ほんと」

抗議なんて何処吹く風。沙奈はもう階段に置いた数冊の本を胸に抱えて二階へとすたこらさっさ。たった一冊だけでこれ程の機能性の違いを見せつけられるとは思わなかったので勇吾は目眩を起こして

「……」

しゅんとしながら二人は先生に頼まれていたように職員室に此処まで運んできてちょろっとよろけた本一群を置いて更に其処に置いてあった別の新たなパリッとした本を胸に抱えて廊下を歩いている。今度は勇吾だけが一冊多い構成だ。

「まぁ、こういうこともあるさ」

何処か気まずげな雰囲気のなか今にも階段を登っていく二人は降り以上に重そうな様相を表している。勇吾は何とか一段一段彼のペースで登っていくが沙奈は一段一段がバベルの塔を越えるような趣きで登っている。

「やっぱり後二、三冊持つよ。それが良い」

「駄目」

下から三段目の階段にようやく足を掛けた沙奈は提案を拒否しその上意固地にも顔の前にまで聳える本を渡さないが為に横へと逸らそうとしたため支えきれず数冊の本と共に流されながら正面向いて三段下の緑色絨毯に落っこちる。此れはえらいことだ。何とも言えない叫び声と共に緑色絨毯に飛んだ沙奈はせめて怪我だけは防ごうと見事な着地を試みたのだが先に緑色絨毯に広がりながら落ちた本の上に上履きがつき、古典的作法を本を通して実行、尻餅をつき頭を階段へとぶつけた。それはそれは見事な音であった。

「……」

其処ら中に散らばる本の中痛いすら言えず蹲る沙奈と階段上にて青ざめた顔を浮かべ本を抱え込む勇吾。

「おっそいから、手伝いきたぞ」と云う同じクラスの男女が其処へと来て騒ぎは大きくなる。一人の女生徒は騒ぎ一人の男子生徒は言葉を失い一人の女生徒は先生、先生と叫びながらけたたましく階段を登っていく。勇吾はようやく状況を把握したのか膝をがたがた震わせて顔の前まである抱えた本を地面へと落とし其れが階下にて頭を抱える沙奈の元へ落ちていくのに気づいて本をどうにかこうにか止めようと階段を走ろうとして足を滑らせた。勇吾の意識は其処で失われたが後で聞いた話によると彼はどうやら呻く沙奈の頭へと突撃したそうである。

 

「……」

気を失った人間は一体どう云う反応を世界に示すのであろうか。少なくとも目を開けた瞬間白い天井、身体の上に軽いタオルケットの感触を感じた勇吾はおそらく保健室、つまりどう云うことなのさ、逡巡も馬鹿馬鹿しいので声を上げて聞いてみる。

「此処は保健室」

ですねと続く筈の声は出ない。絶句。勇吾は金縛りにでもあった気分を味わいかけるのだが目を瞬いて回避。首を振り凄まじい動悸を展開し始めた心臓を落ち着けるために深呼吸。私は勇吾、身体は重く背が高い。顔も整っている。女子からの評判もそう悪くはない。立派な男川原勇吾。

「私たちは入れ替わってしまったようなのです」

勇吾が寝ているベッド横に置かれた椅子から聞こえる声は気持ち悪い。勇吾は顔を逸らし身体を横に向ける。睡眠へ移行。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹。

「自分の声って気持ち悪く聞こえるもんだから仕方ないけれど、こっち向いてよかわいこちゃん」

「自分のことかわいこちゃんって言うなー」

罠に引っかかり思わず振り向いてしまった勇吾は椅子に座り妙に役者ぶった表情を浮かべる川原勇吾そのものと彼が胸に抱える折りたたみ式鏡に映る全くもって愉快に眉を曇らせたタオルケットの掛かる福原沙奈に出逢ってしまう。鏡に映る沙奈は自身の顔を見つめてしきりに瞬きを繰り返しながら自分の顔を華奢な指でぷにぷに触り始める。そしてその勢いでどんどん下方に進行する沙奈の腕は見覚えがあり過ぎる毛が薄く生えた勇吾の腕により動きを制限された。

「まぁ認めるしかないわけね。如何してこうしてえらいことになるのだけど」

勇吾の声ですらすら述べられる意見はその口調だけ取れば正に沙奈そのものであった。しかし声は勇吾そのものでしかなく仕草もやけに女の子っぽく長くもない髪を手でくるくる回そうとして苦心する勇吾は気持ち悪いとしか言いようがない。

「自分をそう卑下するもんじゃないよ。私はね可愛いと思うよ。他者の目を通しても此処まで可愛いとは大したもんだ」

勇吾的な沙奈は舌打ち。

「その口調よ。なんて醜い姿。俺の姿を借りて中身は沙奈ってあんまりだ。そして如何して俺は沙奈の身体の中にいるわけだ。如何して」

「ぶつかってしまったの」

粛々と沙奈口調の勇吾によって語られる此処までの経緯を聞いて現状に納得した勇吾的な沙奈はため息をつく。

「そりゃあ妄想は叶って欲しいと我々は常に願っているわけなんだけど。其れが如何してある日突然なんだ。半ば諦めていても捨てることできない妄想の中から一つ、でたらめだ。吐き気がするよ、まったくよ」

「でも仕方がないじゃない。なってしまったんだから」

荒ぶる気持ちを抑えきれず思考が乱れる勇吾的な沙奈は如何して沙奈口調の勇吾がこうも現実的に出来事を解釈可能かまったくの不明であった。ただ一度の衝撃だけで済み気絶もほんの数十秒で済んだ勇吾の身体にて暫しの逡巡を得られたアドバンテージだけでは済まない問題だろう此れは。

「もうそう云う時代になってきたってこと。例え現実にそうは起きなくてもね、起きても不思議じゃないし起きたら起きたらで別に普通なお話ってわけ」

「自意識の交換がかい」

「うん」

暑い夏の気温にやられて所々が汗で濡れたカッターシャツの気分を味わっている沙奈口調の勇吾は「何故保健室だと云うのにクーラーが効いていないんだろう。此れは先生の失策だ。つけてもいいよね沙奈? ねぇ沙奈」と額に流れる汗を拭きながら立ち上がる。言うより早く話の途中などどこ吹く風な行動はまさしく常日頃接している沙奈ではあるのだが其処に居る者は声図太く身体はおっさんになっていく男なのだ。思春期予備軍たる小学六年生にて男子と変わらない背を展開する女子群の中でそうは伸びきれず中学二年生を迎えた今あの時より大きくなった勇吾とあの時からそうは変わらずちょんぼり背伸びして意地を張る沙奈。その幼児たる身体は今勇吾の意識の中で佇んでいた。暑い。なんて夏。沙奈が日々暑いと呟き続けるのも解る。カッターシャツは汗でまみれて気持ち悪い。暑さと寝汗のダブルコンボだ。

「着替えとかないのかい。此れは我慢できる程度を超えている。じめじめのなか思考なんて毒だ。そうだろ沙奈」

勇吾的な沙奈の声になど構わずクーラーの起動に成功した沙奈口調の勇吾はふわりふわりとほんの少し汗臭い身体を揺らしながらベット横の椅子につく。

「暑さはじきに収まるよ。其れより今は此れからのことを話さないと。先生もいないんだからね」

「そんなことより着替えだよ。どっちみちこれほどの汗だと身体が冷えちゃう。ようやく君の辛さがわかった僕だから言うけれど着替えはないのかい、着替え」

「着替えなんてあるわけないじゃない。体操服ぐらいだね。放課後の」

「其れで良い。早く教室から持ってきてくれよ。余りに此れはきつい。私には耐えられない」

ストップ。だんだんと冷え始めてきた保健室。沙奈口調の勇吾はいきり立つ勇吾的な沙奈を止める。余りにもかぶれすぎだ。

「体操服なんて着れるわけないじゃん。勇吾君は知らないだろうけれどまだ六時間目なんだよ。よっぽどの事態が訪れない限りそんな小っ恥ずかしい格好するわけないじゃん。勇吾君。一応今あなたが生きているのは小一時間前まで私福原沙奈が培ってきた大切な肉体である事をお忘れなく。私だって勇吾君の身体に生きていること、その意味をしっかり考え込もうと必死なんだから、解る? 解ってよね。そうじゃないと嫌」

「あぁ…」

顔が熱い。保健室に行き届いたクーラーの冷気で身体は涼しいを思考しているのに如何して顔はこんなにも熱い。ベットにて上半身だけ立ち上がって沙奈口調の勇吾と向き合っていた勇吾的な沙奈は真っ赤になった顔と泣きそうになる表情を本当の沙奈に見せるのは忍びないと感じたのか俯いて唇を噛んだ。如何して彼女は此処までに思考を重ねることが出来るのだろう。自分は如何して自身の事に夢中になって目の前の自身と同じ境遇に生きる沙奈のことを考えることはしなかったのであろうか。できなかったのであろうか。恥ずかしくて死にそう。

「そう俯くことじゃないよ。大丈夫。気づいてくれれば其れで充分なのだから」

勇吾的な沙奈は一度目を瞑り切り替えてから沙奈口調の勇吾を見る。其処には其処らじゅうの鏡でお馴染みなイケメンながらにカメラを通せば見るに耐えぬ気持ち悪さを携えた勇吾がいるのだが其れは見事なほどまでに沙奈の表情だった。何処か惚けて抜けていて其れでいてなんだか温かい感情を抱え込んでしまう勇吾の沙奈に対する印象のままであった。勇吾的な沙奈は息を吐いて心を落ち着かせる。そして

「ありがとう」

と口走る。椅子の座面前方に両手を掛けてがたんごとん揺れていた沙奈口調の勇吾の顔は私に安心を与えようとする顔だ。沙奈は良くそう云う顔をする。沙奈にとって重要なコミュニケーション手段なのであろう。勇吾もまたそう云う沙奈の表情は好きであった。

「まぁさ。勇吾君のことわかっているから私は安心しているよ。どれだけ男子的嗜好を私の身体に携えていても礼儀正しい勇吾君は先程のように面白い行為は時として冗談が通じる場所でしか行わないってこともよく知っている。よーく知っている」

「うぐっ」

釘を刺された場合引き抜くことは出来ない。現実の裏で育んでいた楽しみが一つ減った勇吾は一体如何して沙奈の身体で生きていかなければならないか考える。勇吾の意識がある十四年生存した沙奈の身体。本当に不可解だ。

「まぁ礼儀正しい僕も素朴で無垢な沙奈も面白い行為なんて常々する筈がないことなんて当たり前で。其れでいて僕たちは此れからどうするかについて考えないといけないだろうね」

がたがた椅子を揺らしながら首肯する沙奈口調の勇吾。

「そうなの。其れを考えたかったの。今現実として起きているこの不可解な自意識の交換は夢や妄想の類で、そう云うものの相場は直ぐに破綻して消滅っていうのが頃合いなわけ。だからと言って其れが私たちの此れからに致命的な害を残さないなんて保証できないから不安になるわけで。其れならば一体どうしようかってことなんだけど」

「待つしかないんじゃない。先ずはの話だけど。もしかしたら本当に此れはたんぽぽの綿毛みたいに飛んで霧散する可能性も否定できないんだから。先ずは其処からだ」

「不安なのだけど、そうしかないわね」

「そういうこと」

うんうんとうなづき合う二人は大変仲の良い男女である。

そうするとチャイムが鳴った。六時間目の授業は無事終了したようだ。にわかに保健室の外は騒がしさを帯びてくる。沙奈口調の勇吾は大事なことを忘れていたと立ち上がり保健室の入り口の鍵を閉めにいく。そういえば、勇吾は考える。自分が起きてチャイムが鳴るまで其れなりの時間が過ぎ去ったはずなのに如何して保健の先生は帰ってこないのだろう。出張にでも出かけたのだろうか。それにしても一人ぐらいは付き添いの先生がいるだろう。だって私たちは大事故ともいえる衝突を果たして保健室に運ばれてきたわけなのだから。少なくとも沙奈の身体はそうであった。

「此れで暫くは時間を稼げる」

電気までも消して中々の対策を試みる沙奈口調の勇吾。そんな沙奈口調の勇吾に勇吾的な沙奈は

「如何して保健の先生は帰ってこないの」

質問するがその先は続かない。しーと人差し指を閉じた口にあてて沈黙を要求する沙奈口調の勇吾。とことこと外から歩行の音がする。二年一組の教室にてよく聞くそのテンポは担任吉永先生のリズムである。ゆった、ゆった、足の端を上手く使い歩く男は自らの甘いともいえる指示で起こした事故に責任を感じているのだろう。授業が終わってすぐさま誰よりも早く保健室に駆けつけた。ノックをし名前を述べて入ろうとドアの取っ手を横に引いたが開かず何度も試みるが結果は同じ。沙奈や勇吾の名前を呼ぶが反応のない暗い保健室に愛想を尽かしたのか、あれ、おかしいなぁと発言してから去っていった。全く面白い先生である。保健室の中では沙奈口調の勇吾が勇吾的な沙奈の口を塞ぎ込んでいたものの二人は存在しているのだから。

「一先ず大丈夫。ほんの少しだけだから、大事な話聞いて」

そう語るベッド横沙奈口調の勇吾は少し切羽詰まっている。勇吾的な沙奈は保健室の先生のことが気にはなるが聴きだすことは無理だなぁと諦めをつけて沙奈口調の勇吾の話を聞く。

「まさか今は意識が薄い勇吾君だからどうってことないと思っているかもしれませんけれど。此処は私たち二人しかいない保健室。授業中は急患でも運ばれない限りその状況にヒビ入ることはない。でも休み時間は違うし、もう起きた私たちは教室に復帰しなければならないから、今此処で覚悟しなくちゃいけないわけ」

「なにをだい」

「勇吾君は私の身体、声で生きていて。私は勇吾君の身体、声で生きていて。家族とか友達とか先生とかその他諸々で十四年間築いてきた身体自身の定理と対峙しなくてはいけないってこと。そのことを覚悟しなくちゃいけない」

がやがやとした保健室の外に再びゆったゆった担任の足音が遠くから聞こえ始める。恐らく保健室の鍵を携えての歩行は此れから訪れる私たちへの謝罪と説教、二つの意味を携えている。

「もう時間がないわ。私は勇吾君のぼろが出ない程度に振る舞うから。お願いね」

「解ったよ」

と云いながらも中々難しい現実が遂に具現化するかと思うとタオルケットに緩い身体を保護されていても寒気がする勇吾的な沙奈である。

保健室のドアの鍵が鳴る音がガチャっとして吉永先生が入室する。「おおっ」と空調が効いた保健室であることに驚きを覚えた先生は電気をつけて辺りを見渡して保健室の端に位置する場所、カーテンに包まれた空間に二つの黒い影が在ることを確認すると「川原に福原。起きているんだな。そうだな」と云いカーテンのすぐ側までやってきた。

「起きてますよ」と沙奈口調ではない勇吾が述べると「起きてます」と勇吾的装いでない沙奈も続いた。

「開けるぞ」と云う声と共に吉永先生はカーテンを開けて二人を一瞥する。なんてことない表情を浮かべている二人を見て少々不安げだった顔も綻んで吉永先生は話始める。

「全く肝を冷やした。死ぬかと思ったよ。救急車が必要ではなかったのが幸いな具合だ。本当に先生の気配りがなっていなかった所為だ。済まなかった二人とも」

真剣に反省している様相の吉永先生に二人は言葉を返さずちょぼんと座り込んでいる。確かに余りに重たいものを抱え込んだ二人で在ったのだが危機感がなさすぎたと云うのも在ったわけで。そこら辺は此れからの百条委員会で徹底的に洗いざらいされる事情である。

「俺もまだまだ先生になったばかりの新米だ。今日みたいな可能性っていうのは腹一杯孕んでる。だから先生に対してちょっと思うことがあったら発言してほしい訳だ。自分のためにもね」

吉永先生は暫しの言葉を連ねてこの事件に対して自身と二人が感じていることを交わし合うと一息ついて保健室を出た。終礼を終えたであろう校舎からはまさに放課後の嬌声が響き合っている。吉永先生は二人に対してこのようなことが在ったのだから親御さんに連絡して迎えに来てもらうことにした。今日は念のため部活動は休むこと。理解した? と言い残して部屋を出た。荷物等は友達が運んでくれるそうだ。ああ、あともう一つだけ。本当に最後の最後に先生は電気を消して密室状態でありながら入室時にはベッドに寝る沙奈とその横に座る勇吾に対して思うことが在ったのか「まぁ年頃なんだから程々にしておけよ。余りに露骨すぎると大変なんだから」と述べた。

「そんな余裕なかったんだけどなぁ」冗談交じりに勇吾的な沙奈が淡々と述べる。「紳士的な勇吾君は余裕があっても紳士的態度を崩すことはないって沙奈はよく知っているよ」当たり前のように沙奈口調の勇吾はしゃきしゃきと述べた。

「勇吾君! 大丈夫ですかー」

室内だけは静寂が似合う保健室もいきなりの襲撃に全て台無しという他ない。男子女子合計六、七人が室内に公開されたベッド周りの二人に傾注。少しの冷や汗と弁明の機会などない場面に空間は女子の歓声と男子の一本取られたという眼差しの目。

「いやぁ違うんだねぇこれは」

沙奈はごく一般的なお惚けガールであるはずなんだけど少し様相が違う。

「全くもってその通りだ。沙奈の言う通りだ」

大仰ぶった姿勢と言葉を示す勇吾はこの場面で現れた彼の新境地だ。

入り口付近で屯ろう沙奈と勇吾の友人たちは普段と違う二人の反応にお互いに目配せして事情を察知した。其々に携えた二人の荷物を一言も漏らさずに入り口の横に置いてうんうん頷きながら部屋を出て行く。

「いい夢みろよー」

そう述べた男子のように其々が其々のエールを籠めて言葉を漏らし最後の女子が「ごゆっくりー」と述べて保健室のドアを閉めた。全くもって勘違いもいいことだけど。仕方ないよねこの状況。沙奈と勇吾は肩を竦めて苦笑いする他なかったわけ。

二人はその後迎えに来た親が保健室にやってくるまで此れからの方針と対策を話し合った。色々な感情と思考を胸に秘めてより良い妥協案を探り当てる二人。なかなかにまだ生きる経験の浅い二人がまともな対策を打ち上げられるはずもなかったが自然と二人が諸手を上げて賛成した事項は二つ。何事にでも洗いざらい話し合うこと、何があっても落ち込まずに明るく考えていくこと。其れが肝要であった。

「メールするから」

先に部屋を出ることとなった勇吾的な沙奈は緊張気味に沙奈の母親とともに部屋を出ていく。そんな勇吾的な沙奈に見兼ねて沙奈口調の勇吾は小さな声を耳元で囁いた。大丈夫。世の中案外なんとかなるもんなのさ。例え其れが気休めでも今の状況でなんとかやっていける魔法の言葉であることに疑えるはずもない。娘の荷物を持ち前をすらすら歩いていく沙奈の母親にぺたぺたついていく勇吾的な沙奈の思いであった。

「それにしても」

沙奈の母親が運転する車の後ろにちょぼりと座る勇吾的ではない沙奈は考える。結局話の流れで誰にも聞き出すことは出来なかったのだけど保健の先生は一体どうしたのであろうか。まぁメールで沙奈に聞けば済む話かな。どうせくだらない理由だろうから。

「なに」

ルームミラーから通された沙奈の母の目は傍目にも厳しい。勇吾的ではない沙奈はどぎまぎしながら窓の外の寂れた家々の方へ視線を逸らしながら「なんでもないよー」と惚けたふうを気取ってみた。すると

「ふーん。そうか」

と沙奈の母は何事もなかったように運転に集中し始めた。まさか事故なんて起こすわけがない車に乗りながら勇吾的でない沙奈は一息目立たないように車の隅に吐き出した。一体いつ迄この暮らしが続くのであろう。ストレスでぶっつぶれそうだ。始まったばかりというのに。

 

「はぁ……」

見栄や格好だけならば一丁前の城など何処にもない城下町の一端に構えられた沙奈の家、その一室。なにやらへんてこな人形やらに包まれたベッドの上に篭る勇吾的な沙奈は漸く落ち着ける空間を確保でき一息。マイホームともなれば人が安堵をついて動くことが出来る数少ない空間ではあるが勇吾的な沙奈には自身の部屋でも安心することはできない。誰もこない。ノックの音が響くまで静かさを保てば勇吾的でない沙奈を演じる必要はない。それだけがほんの少し有効性を持って一息つける理由。身体が重い。早く寝て暫しの解放といこうではないか。そう思っていると「頭が日焼けるとはげー。キャップを被らずプールははげー。格好つけてかつらつける奴ははげー。かみのきれいなかわいいあの子もはげー」というよく解らん女子様が能天気に歌う謎な着信音が部屋に響く。全くもって此処までのネタ振りを仕掛ける沙奈は余程の演技好きらしい。勇吾的な沙奈は彼の思う沙奈をなんとか彼女の肉親に対して演じるだけでお疲れも良い所なのに普段からそう云う気があったかもしれないバスケ部所属の沙奈の体力負担は大したことないんだな。だから勇吾的な沙奈が家族との邂逅で使い果たしたエネルギーも沙奈口調の勇吾には大したことなく別れ際に約束したメールの件も普通に実行できるってわけだ。

(まぁそんなわけないから、凄くて妬いてしまう)

今勇吾は沙奈で沙奈は勇吾。自意識交換。身体の機能は彼女のものなのに意識は俺。身体は俺のなのに意識は多分沙奈。

話そうとすると舌が回らない。沙奈は舌足らず。呂律の回らない言葉も仕方のない彼女だった。

力も弱い。沙奈の母が適当に置いた自室の鞄を端に置こうと片手で運ぼうとしたら逆に引っ張られる始末。なるほどか弱い女子の身分を味わう勇吾。此れからは大変になるぞ。

此れから。此れからは一体どうなるんだろう。一夜限りの自意識交換。そのような観光気分で終わる話ならば良いのだけどそうは問屋が卸さないのが自意識交換。大体からにして一日どころの話ではなく大仰なプランを経て息絶え絶えになった二人になれば自身の身体に帰還できるっていうのがお約束というもの。僕たちもお約束を為さねば元には戻れないと云うのか。さてそのお約束とは。頭をぶつけて交換した私たちなのだから事情は直ぐ察せる。もう一度頭をぶつければ良い。やはりお話とはいえ先人がいるとは便利なものだ。ありがとう自意識交換をかたちにして世間に表出してくれた誰か。私たちはいとも簡単にトリックに気づけて其れを実行できる勇気を持てます。例え元に戻れる事象とはいえ易々と頭をぶつけ合う奴はいないからね。知っていると云うだけで回り道に疲労しなくて済む。

『どうもどうもこちらは元気。部屋の隅でちょくちょくやるメールも良いもんだ』

勢いで開いたメール内容はなんてことない沙奈の文面である。元気の良すぎる我が兄達とは上手くやれる器量の沙奈であろうからこのメールも頃合いを見ておちょくられない時分に果たしているのであろう。私方の空間の方がメールに易い空間であるから早く返信してあげないと。文面を頭の中に浮かべて、書いては添削、書いては添削。繰り返して漸く完成。

『兄とは上手くいっているかい。余りに元気な兄には君も参るのではないかい。まぁ其れは置いておき沙奈。此方も出来る限り上手くやっているし君に配慮した僕は紳士的な態度も見事に崩していないよ。此れは誇るべきこと。自慢の対象に耐える事案だ。そのことも踏まえて君もまた上手くやっているかい』

変なメールとなってしまったが返信ボタンを押してしまった勇吾的な沙奈は最早赤面して事実に適合するしかない。何が帰ってきたとしても当たり前として受け止める。其れが男の矜持。

『勇吾君の兄は中々にあっぱれ。私もあのような兄様が欲しくて堪らない人生を送っていたから此れは少しの幸せな事案だね(まぁ勇吾君の身体であって妹にはなれないのが癪だけど)

其れは置いといて

勿論紳士的って奴はお互いの信頼関係あっての事だしある程度の境界線の接触は仕方ないとして。沙奈の身体のことも考えて其れなりの紳士性を勇吾君のものには示してはいるよ。

ただ私は女。今は男の身体で暮らしているけれど四、五時間前までは延々なるかわいこちゃんでありました。紳士性など育む必要なく天真爛漫に暮らしていました。そう云うわけです。時間を経て紳士になるわけです。今の私は想像の紳士に過ぎません。リアル紳士を過ごしてきた勇吾君には足元にも及ばない私であるわけです。ぺこり』

中々に喧嘩を売る沙奈である。まだ時間を経ていないとはいえ生活的に仕方のない以上の沙奈のプライバシーは守ろうと考えた勇吾の釘は今すぐ抜かれたって文句は言えないはずだが。勇吾はため息一つ。まあ仕方ない。そう云うことにしておいた。一応釘の一つぐらいは刺しておこう。

『まぁ紳士的ではないのだけど沙奈。確か君はお淑やかでやさしく気配りのきいた正に将来嫁にしたい女子ランキング一位に選ばれる素質はあるのだと廊下を歩く僕に吹聴した記憶はないのかい? あの時僕は対面的な事情が重なって君にそんなわけがない、乱暴で粗悪でへんちくりんな君は正に外から見るには面白い女の子ランキング一位に相応しい存在と嘘も出まかせも良いことを言って君を傷つけた。紳士的な僕には相応しくない行動を取った僕を今許してくれたまえ。なぜなら君は余りにもお淑やかでどんなに雰囲気の悪い人にもやさしく気配りが効き過ぎていてそんなもの改めて話すことでもない公共の事実だったんだ。そんなこと、君と面と向かって話すには恥ずかし過ぎた僕の手前を考えてくれ。君は余りにも優しくて頭も良くて気が回るんだからこんな事言わなくとも全て分かっていたんだろうけれど。

だからね沙奈。そんな君ではあるのだから紳士ではなくとも自身の資質を発揮してそれ以上の行為で僕の身体で生きていくことは織り込み済みってわけなんだな。勿論こんな話余りにも君に失礼すぎて僕が生きている沙奈の顔は真っ赤を通り越して茹でタコだ。ごめんよ沙奈。こんなもの当たり前すぎるのに如何してか僕の口から此れを話したい欲が止まらなかったんだ。紳士的行為を傷つける僕を許したまえ沙奈』

まぁ此れで丁度良い関係を築けるだろう。お互いにとってね。

『まぁそうだ。此処までは冗談だし勇吾君の紳士的誇りを傷つけた私って奴にはお灸が丁度良い。

してして。勇吾君。日が明けても沙奈が勇吾君で、勇吾君が沙奈であったならば。誰もいない朝の教室で落ち合いましょう。やはりこういうのって早い方が良いと思うから』

中々にメール使いの上手い沙奈には舌を巻くしかない。女の子って奴はこう云うものに力を使い果たしてバタンキュッしてしまうんだから。

『解ったよ。そう云うことでまた明日。お休み』

『お休み』

 

翌朝。兄に丸め込まれて低く頭を打ちがちな木の板がご定番の天井となっていた勇吾の朝は別の遠い天井。少し逡巡して沙奈の小さく膨らんだ胸を触り納得。ああ、世の中って簡単じゃないんだなぁと寝ぼけ気味に下手な言葉を漏らす勇吾的な沙奈。

「おはよう」

まだ勝手のわからない階段を降りていき沙奈の母が朝ごはんをせっせと作るリビングに脚を進める。沙奈の母は驚きの顔を浮かべて勇吾的な沙奈を見る。何か下手な私を見せてしまったのか。身構える勇吾的な沙奈に

「沙奈がこんな早起きするとなにやら不自然ね。雪でも降りそう」

とすらすら述べる沙奈の母。時計が示すは六時半。どうやら沙奈は遅起き性質を帯びた中学生だったわけか。こりゃあ気をつけないといけないわなぁ。

「昨日のこともあるんだしまだ寝てなさい。本当に雪が降る程度で済むのなら良いのだけどもしかしたらって話があるんだから。ねっ」

沙奈の母に丸め込まれる訳ではなく勝手の知らない勇吾的な沙奈にとって周りの人間は過敏反応を取らざるを得ない対象。下手に心配させると後で毒なんだから。

「それにしても」

階段を登りながら沙奈は呟く。朝一番に学校を通うことは不可能となってしまった。まぁ仕方ない。沙奈にメールして謝っておこう。自分のことだから解ってくれるはずだ。

「……」

まだベッドの中に入るどころか階段の途中だと云うのに目がしゅわしゅわする。猛烈な睡眠欲。どう云うこと私九時間睡眠の身なのに。なんて沙奈は睡眠魔。

「ベッドに行かんと。ベッドに行かんと」

階段を登りきりしばしの廊下。余りにも眠すぎて地べたの床に倒れこみいもむしのように進むパジャマな彼女。進みは鈍く眠気は鋭い。もう駄目だ。

「……」

朝とはいえ日の差す夏本番手前の六時半。温い空気に冷たい廊下。寝るのには丁度良い。

「沙奈。なんでこんなところに。沙奈! 沙奈!」

数分後に沙奈の父によって起こされた勇吾的な沙奈は両親の判断により本日の学校は休むことを余儀なくされた。沙奈には申し訳ない事態を引き起こしてしまった。よっぽどの事態を引き起こさない限り休みなど与えられない川原家であるのだから沙奈は一人勝手のわからない身体で学校生活を過ごさないといけない訳で。其れに朝練! 説明することを忘れていた。もう七時前。普段ならば家を出ている時間だ。果たして間に合うのだろうか。勇吾的な沙奈はこんな時間にも関わらず沙奈に電話を敢行した。音が篭り部屋に両親が見回りに来ても融通が効く布団の中。暫しの逡巡を経て電話に出たのは

「もしもしー」

川原家次男、勇吾の兄康介であった。何故こういとも簡単に弟の着信に出る兄であろう。この時ほど兄の存在を呪った勇吾はいない。しかし事態は急を要する。多少の名誉を傷つけてしまう事態はお互い理解せざるを得ない状況。沙奈には申し訳ないけれど会話を敢行する。

「あのーどなたでしょう。私、電話かけ違えたでしょうか」

「あー。君の名前が福原沙奈っていう人ならば掛け違えていないよ。教えて、君の名前」

全く図々しい兄には辟易とするが会話をこなす他なし。勇吾的な沙奈は少し言葉を尖らせて兄と会話する。

「沙奈です。勇吾君はいらっしゃいますでしょうか。いたら変わってください。お話ならまた時間が空いたときに好きなだけしてあげますから。えー、勇吾君の兄様でいらっしゃるのでしょうか。理解したなら変わってください」

「へーい。と言いたいところなんだけどもう勇吾は行っちまった。君はまだなんだろう。もう少し時間はある。つまり今どうだい。君の趣味とか」

通話時間二十一秒。もう絶望。一体どういう手段があるというのだろう。勝手な行き違いを起こした勇吾的な沙奈。か弱い女の子として深窓に詰め込まれた勇吾的な沙奈が通信手段を持たない沙奈口調の勇吾に伝えられる技術は如何程か。余りに尊厳を傷つける行為はできない。学校の暮らしにそうは関わり合いのない兄にならばちょっとした無茶も影響はないが家族だとか友人だとかには下手なものを吹っかけることはできない。つまり沙奈に暗黙の了解的に下手な想像を育ませて理解してもらう他ないってわけか。勇吾的な沙奈の不祥事により沙奈の心を濁らしてしまう。全くもって紳士の風上にも置けない。

「……」

電気の消えた部屋の中。沙奈の妹やら母やらが構ってきたのももう八時過ぎ。悩んでいても目を逸らしても過ぎていく時間の中ただ勇吾的な沙奈は自身の行いを悔やみ反省する他なかった。せめて帰宅した沙奈口調の勇吾に事情が解るようにメールを打っておこうと文面を考える勇吾的な沙奈であったが中々文章が思いつかない。そうこうしているうちに眠気が激しく迫ってきて勇吾的な沙奈は文章途中の送信ボタンと共に夢の世界へさようなら。まぁ仕方ない。眠いんだから。

 

昼前に起きた勇吾的な沙奈は手元に落ちている携帯画面に目をやり途中のメール文面が送信されたことを知るとあがぱがぱがと泡を吹いて倒れるより他になかった。なんて半端な文章に加えて最後には「かにはどうでしょう。おいしいでしょう」と謎めいた暗号が加えられた文面。沙奈の予測変換は一体どうなっているのか。そう逸らすより道はない失態。

まぁ仕方ないというより道はなかった勇吾的な沙奈は切り替えてなんとか途中となった文面を完成させて誤信メールに対する弁解も付け加えて送信。取り敢えずやるべきことを終えた勇吾的な沙奈はリビングへと降りる。

『夕方前には帰ってきます。昼ごはんは温めてね』

という沙奈の母の書き置き以外になにもないリビングにて腹も減っていないが取り敢えず置いてある飯を特に温めず食って牛となった勇吾的な沙奈はクーラーをつけてソファーに寝そべる。九時間に加えて四時間ほども寝た沙奈の身体はまだ睡眠を欲す。どれだけの成長期と云うのか。全く成長しない身体でも伸びたいという欲だけは一人前なのか。そんな言い分をつけて勇吾でしかない沙奈は惰眠を貪る。よくよく考えれば学生身分たる勇吾的な沙奈は平日に欠席するまでの身分を得ていようと肉体自体はなにも変わらない平常運転であるのだから家では生活リズムを変えずに勉学に励むべきなのにただ寝る。そのこころは結局非日常的な気分に紛れ込んで業務をさぼろうと一石二鳥を目論む勇吾の心根が成すものであったが知らん。もちろん夕方前に買い物袋を抱えて帰宅した沙奈の母に叩き起こされるのは規定事項である。

「か弱い女の子ともいうべきものがどうしてソファーでお腹を丸出しにして寝ているのでしょう。信じられません」

片足だけズボンがずり上がり涎で顔中べったべた。おまけに髪の毛も落雷後な様相の勇吾的な沙奈に清潔感を保とうとする意識はない。今目の前に沙奈がいたならば卒倒するであろう。沙奈の母の小言は余りにも手厳しかっため顔を洗おうとした勇吾的な沙奈が洗面所で見た沙奈の顔に対する意見がそれであった。

「沙奈。加奈子ちゃんですよ。早くきなさい」

顔を洗い終えタオルで一息ついた沙奈に玄関から沙奈母の声。加奈子ちゃんといえば沙奈の友達で横のクラスの女子である。確か彼女たちは登下校を同じにしていた記憶があるが確かではない。家が近くなのか、欠席した沙奈に明日の授業等に必要なプリント類を渡しにきてくれたのだ。全くもって有難い加奈子ちゃんであるのだが今会うのは結構ギャンブルである。なんといっても普段加奈子と接する沙奈の態度など全く知らないのだからどうすればいいのかわからない。会わずにすむ方策も思いつかない。結局は彼女と接しながら上手くさいころを良い目に回していくしか道はないわけ。

「元気っていうのか気楽な沙奈だなぁ。こりゃあ休まなくてもよかったんじゃあ」

勇吾の加奈子ちゃんに対するイメージといえば沙奈と負けず劣らずのぼんやりさん的属性のお持ち、中々にうふふ女の子という訳なのだが。同性はたまた友達が築いてきた彼女のイメージは如何程か。加奈子が帰宅しようとするまで逃げることのできない空間で一体一人の勇吾的な沙奈が戦う彼女のテンポ、沙奈のテンポ。アドリブって奴は大筋が決まっているからこそ効くわけで。いきなり与えられた暫しの邂逅でどうにかできるものではない。

「まぁ昨日のこともあって大事をとってってわけさ」

「期末も二週間前だと云うのに大変ね。塾は如何するの。確か数学のテストって今日でしょ」

そういえば沙奈は塾に行っていたんだ。って云うか期末。身体変わっていることに囚われていて忘れていた。学校も半ば一日さぼってしまったし昨日も勉強のべも忘れていたし沙奈には申し訳ないけれど今回の期末、御愁傷様です。

「大変だよ。如何して私休んでしまったんだろう」

「私に言われてもなぁ。と云うわけで預かってきたプリント。みんな心配していたから明日は元気モリモリで来なさいよ」

手を振りながら加奈子は玄関から去る。特になんてことない邂逅で終えられたことは勇吾的な沙奈にとって一つの自信に繋がるのだがしかし、期末。如何したものか。甘えるわけではないがプリントを右手に持つ勇吾的な沙奈は台所にて夕食の調理を行う沙奈の母に言葉を漏らす。

「期末二週間前だったんだなぁ。如何しよう、期末」

娘の今更な感じの言葉に沙奈の母は呆れて

「どうしたもこうしたもただやるだけでしょう。お勉強。そんなことよりご飯よそいなさい。プリントを部屋持っていってからね」

「はーい」

元気よく返事をした勇吾的な沙奈はプリントを自室の机に置いてきて沙奈の母の手伝いへ。帰ってくると沙奈の妹が先に手伝いを敢行していた。

「あっ、でべその沙奈だ」

全く口がなっていない生意気な沙奈の妹には辟易とする。妹が欲しいなぁと末っ子なる勇吾は兄のドロップキックが脇腹に決まる度に心の短冊に何度も願ってはきたのだがまさか妹が此処まで生意気とは夢にまで思わなかった。やはり兄ではなく姉という所が関係しての生意気さなのかもしれない。そういうことでなんとか夢を壊さずに沙奈の妹と共に母の手伝いをする勇吾的な沙奈。自分の罵りに対し何の反応もない姉にやきもきしたのか次々に罵っていく沙奈の妹に母が叱りの声。流石にやりすぎたと思ったのか妹さんは神妙な顔をして椅子に座る。

「頂きます」

沙奈の父親も帰ってきて家族みんなの食事ではあったのだが上から聞こえてくる謎の着信音。申し訳がないけれど食卓から離れる勇吾的な沙奈。母の小言、妹の戯言よりも大切にしなければならないことがある。

「どうも。私のかわいい身体はあなたには持て余す機能に充ちているようですね。変な文面なんて沙奈にとっちゃあ当たり前かもしれませんけれどそれにしても中々の才能です。勇吾君はたった一日で私を超える沙奈を会得したようです。見事。これでなにがあったとしても」

図太い男の声は川原勇吾のもの。中身の沙奈はご立腹なのも仕方なく平伏する福原沙奈の中身勇吾。

「申し訳ありませんでした。私の不注意です。欠損では足りぬ言葉足らずな川原勇吾ではありますがどうかご許しを」

暫しの沈黙。一つのため息。思春期男の息はか弱い女子部屋まで届かない。

「まぁ何処までも自身の説明に奔放する人なんてよっぽどのビジネスマンでもない限り不可能だよ。あなたも私もただのごく一般的な中学生に過ぎないんだから。そうだよね勇吾君」

「うぐっ、の一つでも言いたいところなんだけどその通り。ごく一般的な中学生に過ぎないよ」

「だからこの現象も至って当たり前のものに過ぎない。そうよね」

一体何を言えばいいか戸惑うがか弱い女子の心を汚すことはもうしたくないので勇吾は

「そうだよ」

同調した。

「まぁそう云うわけだから。朝練があるっていきなり心の準備なく叩き起こされたのも適当な態度でみんなに下手な川原勇吾像が出来たのも仕方のない当たり前の出来事ってわけで。明日はどう。私の朝を知ったあなたは明日金曜日早朝登校を果たせる身なのかしら。気になるわ」

「うーん」

二つ返事といきたい勇吾的な沙奈であったが中々に逡巡する。あの沙奈の睡眠欲は中々のもんでそう簡単に超えられるものではあるまい。だから張本人にコツを聞いてみるのが一番。

「あの眠りは中々だね。沙奈」

「私の身体も結構大変でしょ。あなたの身体を借りた私が一番実感しているわ。すいすい走って飛んで泳げてスーパーマンとはこのことを言うのね!」

「まぁ僕の身体の話ではなくて。君の身体の話。睡眠の話」

「よく食べてよく寝る。早寝早起。後は」

「後は?」

「根性」

プツリ。通話はストップ。うまい具合で沙奈は切る。やはり達人だ。いや違う。まだ話さなければいけないことがある。そんな気がしてならない。そうするとメール。沙奈からだ。

『―明日の予定―

 早朝登校を果たした勇吾と沙奈はまだ誰もいない教室で密談。一体何が起こるかなんて誰にも想像できない』

ふぅっと一息。階下から沙奈母の声。早く行かないとなぁ。まぁしかし思春期女子たるもの時として家族の団欒に消極的になることもよくあることだし。暫しの通り抜けも仕方ないと思うのだが。知らないね。

そんなことを考えながらも階段を下っていくと後ろからあの変な着信音が連続。連続し過ぎてもはや勇吾的な沙奈の頭もはげるのではないかという思い込みに浸りながら飯を食う沙奈。

(ああ、そういえば)

家族となんとかこんとか適当にやりくいしながら食卓囲む試練の勇吾的な沙奈は頭の隅で思考。確かに沙奈は中々にやり繰り上手。地味に昨日から連続するメールは注意事項の連続。紳士的な態度を臨むと言いながら兵士的な行動を続けることを要請する沙奈は鬼畜とも云える。しかし自意識交換。滅多にない出来事。だからこそこういうお約束も必要なのだ。

「ごちそうさま」

そうして自室に帰った勇吾的な沙奈は圧倒的な友達等のメール量に目眩しながらひたすら夜中まで沙奈の指示を仰ぎながらある程度の文章を返していく。もう眠い。ああ眠い。そうして寝るまでただ延々に。

 

沙奈的には半時間も早い登校には肉親友達関係各所への様々な弊害が出るものでやはり此れからのことを考えると早いうちに自意識を元の肉体に戻さないと取り返しのつかないこと限りなし。まだ二日か三日とはいえど肉体的にも精神的にも自身と違う当たり前の展開には辟易とする。沙奈も同じようなことを勇吾の肉体に感じているはずだろうからね。出来る限りな早足にての登校も勇吾の下駄箱には運動靴だけ。てくてく重たい学校指定の鞄を背中に背負いながら一段一段なんとか登り切って三階へ。しかし二年一組の教室は密室状態。入り口の透いた窓から中を見ても誰もいない。一体沙奈は何処へ行っているんだろう。っていうより鍵はどうしたら良いのか。

「鍵は職員室にもらいにいくのが負けず嫌いさんの定理」

からから声が展開する男子は勇吾的な沙奈の前を通り抜けてドアを開ける。

「さぁ中に入ろう」

ニッコリと事情の知らない女子が見れば惚れることもあるであろう笑顔に誘われてようやく勇吾的な沙奈は自身の、自身の机、前に行って席割り表の福原という表記を探して

「沙奈の席はここ」

沙奈口調の勇吾は川原勇吾の席に荷物を置き福原沙奈の座席に座っている。一体何を考えている沙奈なのか。彼女改め彼は私の思惑に勘付いたよう。にっこりと笑って顔を朗らかに紅に染めながら話し出す。

「例えばさ勇吾君は願ったことない。女の子になりたいとかそういうの」

急な話ながらも余りにたゆたゆと話すがらがら声の沙奈口調の勇吾ではあるので此処は正直に話すしかない。何を隠そう勇吾も日曜朝九時辺りにやっていた格闘系女児アニメを楽しみに見てきた身であるしそれ以外にも幼少期にて周りのおばさま達の女の子みたいという声やジャージ女子やらゴシップ女子やら様々な性的欲望を絡んで少なからず女の子になるってことに憧れる身ではあるため今自身の身体に起きていることは信じられない出来事であるのだ。自分みたいにたがが憧れという軽い気持ちだけの者が自意識を女の子と交換してしまうという奇跡。少しでも横に目を逸らせば様々な弊害。今だって入れ替わった彼女ともう一度元に戻ろうとする算段を立てている。こんなこと滅多にないこと、誰よりも切望する人がいるなかでたった数日で元に戻ろうする馬鹿野郎。しかし、しかしそれこそが私の現実であるのだ。自意識交換、性別を跨ぐというものに対する意識。何処かお惚けた天然さんの肉体に囚われた川原勇吾の自意識。

「私もそうなんだよね。でもそういうものかもしれないね。いつだってなにだって起こることだけが決まっているの。そして私はそれに生まれてきたわけじゃないからいつだって一番自身が広げることができる可能性を構築する前に出会ってしまうの。そういうものだよね。生きていくってそういうものだよね」

夏の学生のいない朝の校舎と云うものは少しの暑さを携えて睡眠している。此れからどんどん起こされていくいつもの朝に備えて最後のレム睡眠に浸っている。例えば今から私たちが頭をぶつけ合って気絶した先に見る夢は校舎の夢も携えるだろうか。なにか下手に組み込んでしまい帰ってこれないかもしれない。人がいないときに頭をぶつけるもんじゃない。誰かが助けに来ないと死んでしまうかもしれないんだから。

「でもそれも仕方ないよ」

紗奈口調の勇吾は沙奈の席から離れ教室後方のロッカー群その端に入れられている例のパリッとした本を取り出していく。全てロッカーの上に乗せて沙奈的な勇吾を呼ぶ。

「さぁ行こう。せっかくの銘が刻まれた本様には悪いけれど」

あの時と同じように今回は反対の肉体であの事故を体験。時間も物も身体も違う。全く自身の意志により意図的に引き起こされる事故なんて茶番。其れでも私たちは引き起こさないといけない。元に戻るための一番の方法。其れこそが発端となった古典的作法を引き起こしあの時起こった全ての業務を果たしていく。其れこそ肝要。やらなければいつまでも他人の身体で一生を過ごさなければならない。そんな想像も現実。

沙奈口調の勇吾と勇吾的な沙奈は背中に黒いマジックペンで銘が刻まれた本一群をあの時と同じ配分で運んでいく。てくてくあせあせ、誰か早朝登校が使命の生徒がやって来る前に全ての業務を果たさなければならない。出来る限り似た行動を取ることで道は開かれる。少しの可能性でも溢し落としてはいけない。それならば結局何も成せない。

「――」

「――」

どうってことない会話もあのときにしていた。話の内容は覚えていないけれど今は此れからどうするかを考えて二人は進む。今何を話しているかなんて記憶する筈もない。ただ記憶を辿り二人は演じる。あの時の彼女と彼、行動をただ真似ていく。あの時彼女は階段の踊り場で抱えた重い本を置いて一つ彼に罰の意味を込めてプレゼントした。意地悪な彼に与えなければならない必然らしい。たった一冊で機能性がグンと上がった彼女はすいすいと階段を下っていきそれに驚いた彼は見事に本を地面にばらまいたのだ。

「――」

まだ一度しか使っていない福原沙奈という名前が刻まれていないさらさらの本も階段を滑り落ちていく。開いたり閉じていたり階間をすり抜けて一階の廊下へと消えたり。ただ二人は其れを眺めて動きが止まったときに一つずつ拾いあげながら下へ下へと下っていく。そして一階廊下。全て拾い終えて二人は職員室へ。先にトリックを仕掛けたらしい沙奈口調の勇吾の背中により職員室の固いドアは開かれていく。職員室は眠たげで生徒に積極的に干渉はしない先生が二、三人其々の作業に没頭しているだけだ。沙奈口調の勇吾と勇吾的な沙奈は其々に抱えたパリッとした本をドアの側にある物置の上においてその横に沙奈口調の勇吾が今朝用意したらしいちょろっとよろけた本一群を其々の配分で運んでいく。勿論あの時運んできた本だ。一体どこに残されていたのかと沙奈口調の勇吾に聞くと普通に吉永先生の机の下に置かれていたらしい。掃除に疎い男は結婚できないとよく聞くからその気ならばファイトしないといけないね吉永先生。余計なお世話だけど。

そんな世間話は置いといて此処からが肝要。私たちが緊張感を持って演じてきたあの時の私たちもラストスパート。ただてくてくと運んでいく彼らは先ほどの失態もあり肉体的な体力を配慮しない量の平等を観点とした配分で本を運搬。階段を彼は先ほどよりすらすら登っていくが力のない彼女は半分の量にてんてこまいで一段一段バーベル自己記録更新を狙うが如くなんとか登っていきようやく下から三段。見かねた彼の救いの声に意固地になった彼女は本を渡さないことを彼に確かと示すため本を横に逸らし、その勢いで数冊の本とともに階段下に置かれた緑色絨毯へと落ちていく。ただ落ちるだけならば良かった。運の悪い彼女は着地を試みた先に開いた本が落ちていて見事に踏んだ彼女は足を滑らせて素晴らしい勢いで頭を階段の端にぶつける。暫しの沈黙。様子を見にきた同級生の声に漸く彼は我を取り戻し受け入れたくない目の前の現実に思考を暗くして錯乱とし手から離れて滑り落ちていく本が彼女へと向かうのがよほどひどい結果を生むと早とちりとし突撃、彼と彼女は激しく頭をぶつけ自意識が入れ替わってしまった。其れを今から再び実演する。時間も残り少ない。如何して生徒がやってこないと考えられる? 顔が特に広いわけではない二人ではあっても全校生徒が百人を超える程度で手一杯な中学校は先輩も後輩も皆んな顔見知りなのだ。早く、早くこなさないと。

しかし沙奈の身体になっての本の運搬は重いにも程がある。出来る限り早く地面に落としたい要求に駆られながらもなんとか先へすいすい進む沙奈口調の勇吾についていく。っていうか沙奈は勇吾の身体になって重いものをすいすい運べる喜びを感じてはいないだろうか。余りにすいすい進みすぎてもう階段も途中まで進んでいる。勇吾的な沙奈はまだ玄関付近から動いていないというのに。そうすると後ろから足音が聞こえてくる。一体だれであろうか。沙奈口調の勇吾は階上で声を出さないものの口を早く動かしている。一体何を意味しているか、逡巡する暇もなく

「君たち何をしているのかね」

って隣のクラスの担任が渋い顔を浮かべて勇吾的ではない沙奈の側に立っている。目を瞬きながら受け持つ女子バレー部の朝練へと向かう先生は暇などない所以目の前の出来事をスルーしようとしても二つしかない第二学年で一昨日起きた事故の事情など大体からにして頭に入っているだろうから先生という手前説教の一つや二つ繰り出すだろうしそうなればこの状況どんな言い訳をしても通用しない。もうこれで終わり。今日私たちは可能性を試すことは出来ないだろうしもしかしたらこれからも難しくなるかもしれない。例えば余りに厚すぎる本群の運搬に生命燃やし始めている二人に様々な勧告が下されてもう自由な時間など確保できないかもしれない。そうこうしているうちに夏は過ぎて秋はきて冬過ぎて春夏秋冬卒業式。もう簡単におんぼろ校舎に入り込めない私たちに可能性は閉ざされて未来を諦めることを要求される。自身の身体で育んできた自意識では辛く厳しい世の中なんて生き延びられないのだから自分を捨てて彼や彼女の身体になりきらなければいけない。でも、そんなこと、そんなことってできるわけないよ。嫌だよ。だから、だから今やらないと。

「うげっっ!!」

生徒たちに威圧的で暴力のたがが外れると狂乱天下が描かれる隣のクラスの担任に階段から走り飛んできた沙奈口調の勇吾のドロップキックが決まった。つまり本当に後はない。沙奈口調の勇吾は階段の中央付近に置いておいた厚い本一群へと走っていく。金縛り気味だった勇吾的な沙奈は目を瞬き唇噛んで動き出す。出来る限りの沙奈のへなちょこなバランス感覚を上手く使いきって重い厚い高さ目の下本一群を抱えて進んでいく。下駄箱からいつの間にか登校してきた生徒たちは不思議なことに鞄を砂だらけの地面に落として其々に力の限り声を出して私たちを応援してくれている。唐突かつ強烈な打撃を喰らい凄まじい呻き声をあげながら天井から地面にバランスを崩し落ちたゴキブリの如く這い回る隣のクラスの担任は漸く痛みを消化しきれたのか立ち上がり凄まじい唸り声「川原ー!! 福原ー!! やってはいけないことをする奴はどうなるか。解ってのことだなぁ!」と宣言して此方へと走ってくる。勿論勇吾的な沙奈は自身の業務をこなすことで精一杯だし沙奈口調の勇吾も先ほどの攻撃は奇襲だからこそ効いたわけであり如何にも暴力にすれている隣のクラスの担任の臨戦態勢と向き合うには余りの力不足、出来るわけはないんだけど相手を殺す気でいかないと今の彼を止めることは不可能。そんなことを一瞬で判断して行動できるほどどころではなく生まれてこのかた暴力的な存在とは出会わず過ごしてきた沙奈であるのだからつまり

「お前らどけー!!」

なんと奇妙なことが起きていく。下駄箱にて声援を送っていた生徒のうち数名が勇吾的な沙奈に向かっていく凶弾先生の前に立ちふさがったのだ。如何して恐怖の弾丸先生を止めようと粋のある生徒がこのおんぼろ学校にもいるというのか。今こそ絆という言葉の価値を二人は知る。特に二人と仲の良い人たちではないのだけど。歓声はどんどん大きくなる。いつの間にか階段横の廊下には隣のクラスの担任が日々血潮を噴いて指導している女子バレー部の群集が猫のような声を上げて立ち向かう生徒を応援している。日頃虐められている鬱憤をどさくさ紛れに消化しようとしているのであろう。勇吾的な沙奈はくすりと笑い進む。そして漸く階段の前へ。勇吾たちが入学して初めての騒動に何事かと職員室に溜まっていた先生たちがどんどんやってくる。中には騒動の始祖たる二人の担任吉永先生の姿もあった。先生たちは余りに白熱し過ぎて最早暴動一歩手前、更にどんどん登校し騒動の渦に加わる生徒一群と生徒たちを殴り蹴り飛ばしバックドロップを演じる破壊神たる隣のクラスの先生の沈静化を図ろうとするが最早彼ら一般的教員では収まる問題ではない。職員室側の廊下から離れて見ている女性教諭は余りに白熱して異様さを帯びてきた空間に触発されて職員室へ叫び声をあげながら走り出した。彼女は職員室に備えられている固定電話から一一〇をプッシュ。淡々と繰り出される一一〇番のマニュアルにヒステリー気味に現状の空気の異常さ、先生生徒ともに暴力の嵐、校内の窓ガラスは割れる、農家の服を着た集団が鎌で人を切り裂いていき生き残ったのは私一人と妄想と現実が入り乱れた通報に警察当局は困惑し念のためパトカーを一台其方に向かわせますからご安心くださいと述べて電話を切った。

因みにというわけではないのだが余りに暴動が白熱し過ぎてほとんど誰も観ていなかった勇吾的な沙奈と沙奈口調の勇吾のごっつんこは見事なもんであった。あの時とは違い二人とも気絶して倒れていた。その様子を最初から最後までうっすらと眺めていた吉永先生は後の有志によるインタビューにてこう語っている。

「あんなに神聖な行為は生まれてこのかた見たことはありません。あれほどの暴動の中如何して二人は取り乱すこともなく自分たちのやろうとしたことをやり遂げられたのか。私には出来ません。だから憧れますし嫉妬します。二人は近くに居ながらも誰も迫って来ない階段でつい三日前起きてまさか二度たりとも起こるはずもない事故を意図的に起こしていたのです。もしかしたら三日前の事故も事故ではなくて何かの確かなルールに基づいて行われたものではないか。別の地方のナンバーが刻まれた車はただ通り過ぎる国道がいくつかある以外に生きた名所の一つもない廃れた街のおんぼろ校舎にて密やかに行われていた謎の行為。エイリアン? 未来人? 違います。彼らは私のクラスの生徒でした。ごく普通の男の子と女の子です。絶対そんな筈はない。そんな筈はないんだ」

こうして如何してか凄まじいことになった期末二週間前の金曜日に起きた惨劇は警察の介入もあり無事に沈静した。怪我人多数、重傷者数名のこの事件は一瞬だけお茶の間を通り過ぎたのだが直ぐに忘れられた。不思議であり、謎である事件というものは世に溢れ過ぎているのだから特に問題となる筈もなかったのだ。当事者たちはそうではないのだがね。

 

「………」

一体は此処は何処であろう。よく知っているか知らないかは分からないけれど恐らくという副詞も必要なく学校の何処かの教室。普段上向けば良く見る白い天井が展開されているのを目を開ければ見るということ。軽いタオルケットが身体に掛けられて薄いにもほどがある敷布団の上で横になる勇吾は果たして自身に戻れることはできたのか。周りから聞こえる寝言群はかわいらしい装い。そして勇吾が起きたことに気がついた女の先生は

「起きた? あなた気絶していたの。何があったか覚えている? 自分が誰か解る?」

と自然に問いかける。私は誰であろう。たゆたゆと上半身を起こして周りを見るとなんともかわいらしい寝顔を浮かべる女子群、自身のか弱い両の手で軽いカッターシャツに包まれた胸を触ると小さく柔らかい。つまりはそういうこと。ため息をつきたい気分ではあるが先生の手前返事が先決。

「私は福原沙奈です。当たり前の沙奈です。酷い騒動でした。皆んなも巻き込まれたようで。一体如何してこんなことに。本当にですね。怖いです」

「自己認識は大丈夫のようね。あなたがどのようにして巻き込まれたかは解りませんが気絶していたんですから余り動かないようにしてくださいね。皆んなは自習しています」

「ありがとうございます。ではでは」

そうしてドアの側に椅子を置いて本を読んでいる女の先生に会釈をして教室を出る。外の表札で確認すると二階の空き教室。二年一組の教室は一つ上。三年生たちが其々の教室の窓を開けている廊下は色々と面倒だから通らずに反対側の階段を使い登っていく。一段一段登っていく。

二年一組の教室は三階玄関側階段の直ぐ横。此方の階段は全くの反対でございますので途中の二年二組の空いた窓の向こうの群衆はてくてく歩く勇吾的な沙奈を見て話しかけてくる。

「あっ沙奈だ。生きている沙奈だ。久方振りだ」

「どうもどうも」

適当に躱した勇吾的な沙奈は二年一組の閉じられた扉を開く。二年一組の面集は其々に騒ぐことなくお喋りに夢中。教室の扉を開けた瞬間勇吾的な沙奈に傾注。何人かの女子は此方に集まってくる。一昨日倒れて昨日休んでの今日の沙奈であるから沙奈の友達ともいうべき者には凄まじき心配をかけてしまったのであろう。勇吾的でない沙奈として其々になんとか対応しながらも教室の中で此方をじーと横目で眺めている沙奈口調の勇吾を見る。沙奈口調の勇吾は勇吾的でない沙奈の目線を感じると直ぐに目を逸らして隣の席の友人と話を再開し始めた。其れは其れほどに違和感のない勇吾であった。勇吾的ではない沙奈はというと

「なんていうか反応が素早くなったね。頭を打ったのがいい影響を与えたのかな」「確かに違和感ある沙奈だ」「ほんとだ」

と云う沙奈の友人の反応にどぎまぎしながら会話を続けていく。沙奈の席についても友人は話しかけてくるので中々にしんどい勇吾的な沙奈。その後一時間か二時間も名ばかりの自習を為していると担任の吉永先生がやってきて沙奈と勇吾は呼ばれた。どうやら朝の件で聞きたいことがあるらしい。まぁ仕方ない。そう云うことも含めて実行したのだ。本当に仕方がなかった。

 勇吾的な沙奈と沙奈口調の勇吾はゆったゆったと厳かに階段を降っていく吉永先生の後方に半ば横に並んでついていく。事態は急を要する。緊張感に溢れるゴルゴダの丘までの道で私語は慎むべきなのだが此処で話さず何処で話す、沙奈口調の勇吾は先生に届かないように勇吾的な沙奈に囁く。

「まぁ何が有ってもできる限り元に戻れる可能性を選ぼうね」

中々にポジティブになるしかない厳しい状況とは言っても憂鬱な気持ちも嘘ではない。真実は私たちの胸の中、誰に話しても信じてもらえる話ではないし一体何を協力してもらえるのか。吉永先生は私たち二人が今朝行っていた奇妙な行為について人伝に聞いただろう。彼はどのような折り合いをつけて此れから私たちの事実を解剖していくのであろう。私たちは真実を云うのだろうか。いや言わない。如何して奇妙で不可解な現象にまみれたのは私たち二人だけ。事実は経験したものだけが認められる。他の誰にも私たちの気持ちは解るはずもない。

「先に川原からな」

なにやら緊張感溢れる職員室横の生徒指導室のドアを開けた吉永先生は椅子を一つ出してきて勇吾的な沙奈に渡す。待ちぼうけってやつだ。一人ずつ事情を聞いて事実を確かめる良く警察がするやつ。勇吾的な沙奈はドアの側に置いたちょっと固い木の椅子に着席、窓から見える中庭の安っぽい噴水をぼーと眺める。蝉の声が煩い。ただ座っている以外に能がない場面なんてそうはない。授業中でも先生の話とかは耳に入れているのだから本当に久しぶり。待つのは嫌いだ。何かしないと落ち着かない。無理にでも聞く蝉の声でもないし此れからの質疑応答に対して思考を纏めるのも億劫だ。寝ようかな。寝よう。沙奈の寝相が何処までかなんて知らないけれど流石に椅子からずり落ちる前に起きるはずだ。そうに違いない。

 

「沙奈。お次は君の番」

ばんばんと沙奈口調の勇吾に肩を叩かれてようやく目を覚ました勇吾的な沙奈の口からはよだれが垂れている。僅か半時間ほどの睡眠で此処まで眠り込めるのかと云う沙奈の肉体にはあっぱれと云う言葉を贈呈しよう。勇吾的な沙奈はよだれを拭き顔をぱんぱん叩いて目を覚ましながらドアが開いた生徒指導室に入室。中には吉永先生と学年主任のはげちゃびん先生が机の向こう側安っぽいパイプ椅子に座っている。勇吾的な沙奈は先生の誘導に従いこちら側のパイプ椅子に座る。質疑応答開始。

「福原は今日の朝如何して川原と一昨日運んだ本をまた運んでいたんだい。先生は何も頼んでいなかっただろう。教えてよ、何故か」

 吉永先生の問いに対し勇吾的な沙奈は暫しの逡巡を経て答える。

「三日前あんなことがあって。色々気が動転して。如何してだろう。少し落ち着きが足りなくて私。川原くんは何を言っていました? 私気になります」

何やらかぶれ始めた勇吾的な沙奈に対し学年主任の先生は渋い声で答える。

「今川原くんじゃなくて君の話を聞きたいんだなぁ。福原くん」

「でも、わたし。如何して本なんか運んでいたかといわれると解らないんです。何か不可解な風が吹いていて惑わされた。そうとしか言いようのない」

狐の嫁入りかい。まさか古池町にそのような伝承があるって云うのかい」

「聞いたことはありませんけれど。でもそれに近いものに騙された。そうとしか言いようがない」

実際そうでもない限り自意識が入れ替わるなんて起こるわけがないと勇吾的な沙奈は思っている。

「ふーむ。不思議だ。福原君は今日起きたことがどれだけ大変なことかは判っているだろう」

 二つ返事で

「はい」

「今日の騒動、最終的には滅茶苦茶になり駐在さんにまで迷惑を掛けた今日の事件。その発生の原因ともなったある小さな事故。其れがなければ今日みたいなことは起こらなかった。如何してだろう。私たちは不可解ではあるし余りに大きな話にはこれ以上したくないんだ。何か一つ確かなことを教えてくれないかね福原君。君が頼りなんだ」

「先生からも頼む福原」

学年主任だけではなく吉永先生も懇願するように聞いてくる。此処で私が事実を言っても何か変わるのかな。

『では期待に応えて教えましょう。ただし話半分に聞く先生だと嫌ですよ。実は一昨日の事故で福原沙奈と川原勇吾の自意識が入れ替わってしまったのです、頭をぶつけた瞬間にでもね。しかし誰に話しても下手な作り話としてしか認識してもらえないでしょうから相談することもせず、この手のはなしで有りがちな元の戻り方、入れ替わった原因の事故をもう一度繰り返そうと誰も邪魔しない早朝に一昨日の再現を図っていた所、吉田先生と一悶着有りましてあのような事態が如何してか起こってしまった。信じてくれますか。私たちはただ元の身体に戻りたくてはたから見れば不自然な行動を実行しただけ。話せるわけない。信じてくれます? 此処まで話したことが私の本心からの言葉って理解してくれます? 無理ですよね。当たり前ですよね。判っているから話さなかったんですよ。全ては仕方ないにつきますから別に責めませんよ。当たり前です』

って云うことを話せるならば気も楽になるけれど話せないからただ掴み所のない話を続ける他ない。程度や尺度も違うのだけど沙奈もまた同じようなことで躱したのであろう。先生二人はただ困惑の顔を浮かべて私を見ている。無言の瞬間が暫く続く。そうして固くなった口を学年主任は開く。

「本当に不可解と云うわけだな。結局。そうとしか言いようのない人間や空間の歪みを利用した不可解な事件と君は言いたいと云うことだな」

「そうです」

「ふざけるな!!」

学年主任は立ち上がる。口元は震えて残り少ない髪の毛は怒りで抜けそうだ。

「例え意図的なものではないにしたってね。まず発端は君たちが本を運んでいたことから始まっておるんだ。こんなことにではなく君達には別の要件があったのだろう。でも結果的にはこのようなことに繋がった。怪我人多く重傷者も数名、授業も止まっている。話にならんだろう君の言葉じゃ。本当のことを話してくれ。君たちは如何して誰もいない早朝にわざわざ一昨日の事故に絡んだ本を運んでいたのか。何かのっぴきならん理由、其れこそ先生たちが今一番君に聞きたいことだ福原君。教えてくれ事実を」

「事実は述べました。本当に錯乱していたのです。頭が戸惑いに溺れて判断力を失っていたんです」

「ふざけるなって言っているだろ。どうかたった一つの冴えた事実をこの老いぼれに教えてくれないかね福原君」

勇吾的な沙奈はだんだん頭に血が上ってきた。生まれてこのかた下手な嘘などついたことないのが勇吾にとって数少ない自慢出来るものなのに、本当のことを言っても良いことには繋がらず話が拗れるだけだから話さないと云うのに如何して目の前にいるはげ男は其れを察することはできないのだろう。何度言っても一緒なんだ。話したくても話せないんだ。判ってくれよ。ほんとうによ。目から涙。彼が勇吾の身体にいた時ならば耐えられた感情も涙腺が緩いにも程があった沙奈の肉体には耐えきれない。表情は特に崩れているわけでもないのにぽろぽろと大粒の涙が白い机の上にたゆたう。次第に嗚咽。勇吾は信じられない現象に立ち会ってしまい困惑してしまった。身体の神経を上手く扱うことができず自意識だけが浮いた沙奈の身体が泣いている。こんなもの辛いとか悲しいとか其処まで至らないものなのに、沙奈は泣いていた。僕ならば泣かないのになぁ。先ほどより激しく涙を流し机にもたれて嗚咽する勇吾的ではない沙奈に慰めの声を先生たちは掛けるけれど効果はない。止まらない。涙は止まらない。生まれて初めての経験だ。

「沙奈!」

突然開かれたドアの向こうから沙奈口調の勇吾が大声を上げて近づいてくる。背中をさすりハンカチを勇吾的な沙奈のスカートから取り出して顔を拭く。そしてやさしい言葉を投げかけてくる。自身の身体をさするだけの沙奈なのに如何してか沙奈の身体の悲しみが伝播した勇吾の心にも其れが効く。次第に如何してか涙は止まる。悲しみは収まる。言葉と行動で勇吾的な沙奈を献身した沙奈口調の勇吾は厳しい目線を先生たちに投げかけた。

「女の子ですよ! やり方ってもんがあるでしょうが」

吉永先生は目を瞬き身体を後ろに引きながら答える。

「ごめんよ。気をつけてはいたんだが」

「解っていますよ。其れぐらい判っていますけれど。でも、でも沙奈は」

沙奈口調ではない勇吾の口から聞こえる歯軋りはまるで工事現場のドリルのような圧力を示している。はげ男は一つため息をついて

「まぁ泣かしてしまうような言動を取ることはなかったと先生も思っているよ。済まなかった二人とも。特に福原くん。悪いことをした」

沙奈口調の勇吾は目こそ厳しさを忘れてはいなかったが先生が示した礼儀に応じてその矛を収めた。その間中勇吾的な沙奈はただ沙奈のハンカチで顔を拭きながら僅かに嗚咽。如何してか涙を止めようとか恥ずかしいとかそのような気持ちが途中から起こらなくなっていた。一体どう云うことだろう。涙なんて恥ずかしいものだった筈なのに。沙奈に護られて凄く心が温かくなっているのも変だ。沙奈の身体で生きているとはいえ変だ。絶対変。

 

その後本人の主張もあり沙奈口調の勇吾も加わっての追及は堂々巡り。余りに繰り返される私たちの主張に先生たちは呆れて物も言えなくなった。最後にはげちゃびん先生は降参を認めるように

「やはり君たちの言う通り思春期に有りがちな気の迷いが引き起こした事故なんだろう。そうでないと説明のつかないなにかが其処にはあったんだな。その何かを私たちは知りたかったんだけど、まぁ仕方ない。いつか君たちが其れを解って話せるようになったときぽつりと教えてくれんか。その時まで待っているよ」

と話して私たちは解放された。廊下が示す時計は十二時を過ぎたところ。もう直ぐ給食。

「行こうぜ」

沙奈口調ではない勇吾が勇吾的でない沙奈を呼ぶ。如何してだろうか。ほんの少しどきどきする。まるで女の子みたいに。横に並ぶと沙奈口調ではない勇吾、川原勇吾の身体は勇吾的ではない沙奈の身体より遥かにでかくて少し怖い。なるほどこれじゃ沙奈も意地の一つを張るわけだ。

「どうしたの」

いつまでもじーと顔を見つめたまま動かない小さな沙奈をみて大きな勇吾は照れ臭そうに頬をかいている。そして小さな沙奈も頬を赤くしているわけ。これじゃまるでドラマに有りがちなワンシーンではないか。おかしい。何か歯車が狂い始めている。いくら沙奈の身体の中に居るとはいえ心まで沙奈になってしまったら元の木阿弥ではないか。川原勇吾なのだ。一四年間沙奈の前にいる男の肉体で生きるを果たしてきた川原勇吾なのだ。其れなのに如何して少し頬を赤くしたごく一般的な少女として青春しているんだ。おかしい。おかしすぎる。

「確かにおかしいけれど」

沙奈ではない勇吾は云う。

「まぁ良いんじゃない」

そうして勇吾のいる沙奈の手をとって歩き出す。いや、此れは、少し、方向線が、狂い始めている。勇吾のいる沙奈は周りに誰もいない自習中の一階下駄箱前廊下とあっても小さな声で顔を上げて沙奈がいるはずの勇吾に囁く。

「元に戻る気はないの。少しでも忘れていると失われるかもしれないよ。今みたいに強いものに吸い込まれて一四年間の沙奈の意識がなくなるとか絶対にいけないことじゃないの」

そして沙奈がいるはずの勇吾は勇吾のいる沙奈にとって信じられない言葉を吐き出した。

「別に良いんじゃない。もう此れは此れ。其れは其れってことで」

勇吾のいる沙奈は手を離した。沙奈ではない勇吾は驚いた顔を浮かべている。何か変なことが起きたみたいに沙奈をみている。まるでもう勇吾なんてその中には存在しないようにちっちゃくて抜けている沙奈を見つめている。その顔は勇吾だ。川原勇吾の顔だった。沙奈がいるはずの川原勇吾の顔ではなかった。此れは夢。悪い夢。如何して悪い方向へ進んでいくんだ。川原勇吾は戻りたい。元の身体に戻りたい。其れなのに川原勇吾にいる福原沙奈の意識は失われつつある。win‐winの関係はとっくの昔に失われたのか。たった数時間。勇吾の身体の中にいた沙奈はどうなってしまったのか。力強い言葉を頻りに吐いてくれた沙奈は何処へ行ったのか。沙奈の身体の中にいても勇吾には解るはずもない。だって沙奈は沙奈の中で一四年生きてきたんだから。勇吾はまだ三日にも至っていないし適合していない。する筈もない。勇吾は川原勇吾なんだ。福原沙奈ではない。そのことを解っていない沙奈にはお仕置きが必要だ。とびっきりの。

「解っていないのは君だよ。沙奈」

心を読むことでは天下一品かもしれない沙奈ではない勇吾は勇吾である沙奈の名前を言い間違えている。誰もいないところでは勇吾でいいのだ。教えてあげよう。

「沙奈じゃない。勇吾だよ」

「どっちでもいいよ。とりあえず如何にしてもこうにしても青春ってやつは短いもんで、ああっと言っているうちに夏は過ぎて冬が来る。秋も春も目を逸らせば通り過ぎる。僕は其れを取りこぼしたくないんだ。例え君の云う通り一四年生きた自分の身体と離れ離れになってしまうにしても。でも其れはどうしようもないじゃないか。君は続けるの? 自分の身体に戻る方法を探し続けるの? さっきの方法では駄目だったじゃないの。戻れなかった。あそこまでの惨事を起こしてまで私たちはやりきったと云うのに。先生とか友達とか色々な人が運ばれたり倒れたり。皆んな私たちのせいなんだよ。幾ら私たちに不具な事実があるとは言ったってなんでもしていいわけじゃない。お灸だよ此れは。またやる気? 沙奈、もしくは勇吾。其れって凄い悪い言葉だと私は思うから」

そして沙奈ではない勇吾は両手を広げて勇吾な沙奈に示す。

「其れに勇吾君の身体だって別に悪くはない。歩いたり話したり寝たりご飯食べたりするのすごく楽しい。私の身体も楽しかったけれどこっちかって同じくらい楽しい。だからもう永遠に沙奈の身体に戻れなくても私、後悔しないよ。やりたいこととか願ったこととか一杯あったけれど、其れでも私認める。今の、たった一つの確かな事実を認める。私福原沙奈が川原勇吾になることを認める」

口から泡が吹き出しそうだ。言葉とか気持ちとか色々な意味が錯綜して目が回る。沙奈の身体の意思と其処に寄生する一四年の勇吾の意思が不確かを示している。解るさ、解るし、でも私は、俺は、どうしたらいいの。何か言わなければならない。もうとっくに遠くて手が届かない位置で思考する沙奈に勇吾は言葉を与えなければならないのに。瞬時に言葉を残せなかった。仕方がないからなんとか試行しながら言葉を残す。話していいことと悪いことを考えながら。

「僕は君が云う通り悪いかもしれないけれど。其れも仕方ないと思う。だって此れは異常な事態じゃないか。ふつうに青春を送っていたら起こる筈のない奇事じゃないか。其れなのに普通の定理で生きていてもどうしようもないじゃないか。もう起こったんだから。そうだ。起こったんだよ。僕たちにはそう云うものが起こったんだ。だからやりきらないといけないと思う。自分たちの出来事の責任をつけるべきだと思う」

 沙奈ではない勇吾は笑う。

「責任がっていう奴が自身の身体に戻るために青春を犠牲にするってこと? 元に戻れるか解らないのに?」

 勇吾のいる沙奈は喉に溜まる唾を飲み込む。

「そうだ。其れに犠牲じゃない。青春は結果だ。沢山の青春の跡があっても僕たちの青春は今このときなんだから」

「私は嫌。私の思う青春はそんなものじゃない。勇吾君とは違う。だから一緒にはやっていけない」

沙奈ではない勇吾は振り返り歩きだす。もう話は終わったようだ。背中に書いてある。其れでも諦めず勇吾のいる沙奈は呼びかける。

「一緒にやらなくちゃ無理じゃないか。二身一体の案件だろ」

「私先行っているから」

沙奈ではない勇吾は階段を登っていき次第に勇吾のいる沙奈の視野から姿を消した。よろけそうな身体に華奢な下半身で耐えてどれだけ叫んでも沙奈ではない勇吾は帰ってこない。此れもまた事実であった。