卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

まずは私

ぼーと目を瞑りながら夢想しているうちに眠る

憧れだけか。勝手な自分の妄想。実際そう描かれているわけではないお話なんてふざけているでしょ? 誰かの想像を借りて、私の想像で世界に表出された言葉なのだから。全て瞬間の君の言葉の連結でしょ? 君はそれを望んだんだ。人に喜ばれたいのか、自分で愛しみたいのか、一体どっちなのか。もう自慰は飽きたんですよ。こりごりですよ。ただ表出する機械でありたい。その気持ちは本当か嘘か知らないけれど飽きたのは本当です。別の世界なんて如何でも良い。自分の世界を確かに生きないといけない。ただ生きる。この言葉が必要なくなるように。何もかも見えなくなるように。

やっていくなんてふざけたお話だけどやらなければっていうか無垢的に生きることが良きことかな? 自分が示せれる一番、囚われの一番ってなに? ただ何処かにへたでよろけてこじつけたものを表出し続けて認められる話っていうのが運。まぁそういう話か、はい。
人間は考える葦だとか言葉があるけれどかたちは考えるってことが大嫌いだ。自身の中で考えるを置いている場所が悪過ぎた。そういうもの俺には多い。社会的にはそう云うね、いや話は変わるのような感じだけれども、その場所の当たり前と違うものを時にはなんらかの感情を乗せて素晴らしく見せたがるけれどもかたちは其れには反対だよ。社会的なかたちはね。生きるっていうのが何処かに所属してみたいな、此れこそ本当に所属感がない人間が言う言葉だけれども、そんな義務感もおかしいね。かたちの人間形成はかぶれているね。もっと言わなくちゃならないんだ。かたちは認めていないんだから。みんなと一緒に日々を暮らす、今の立脚で日々を営むことなんて一度たりとも確信を抱いて生活していないんだから。かたちは村八分にされるべきなのだ。焼かれるべきなのだ。かたちは死への恐怖とぼーと目を瞑りながら夢想しているうちに眠るのもと生きている気がする。死への恐怖から今までの人生を歩んできて今もまたかぶれた行為に浸っているが基本はぼーと目を瞑りながら夢想しているうちに眠るの中で生きている。かたちは思春期の途中できっちり選択を果たした。学生時代に死への恐怖から来る行為の連綿に拒否という二文字をぼやけくらみ掴めないながらになんとか示した。しかし依然死への恐怖に苛まれており行為の連綿はひっそりこっそり果たされている。結局気付けていない。気づこうとしなかった。当たり前の話だった。その中で如何やって自分は生きていくのかということだ。選択した道を理路整然に示すことが今の自分に必要なことかもしれない(となると次のブログのタイトルは目を瞑りながら夢想しているうちに眠るではないな。まだ早い話だなぁ。そう思うかたち。)。

かたちの選択とはぼーと目を瞑りながら夢想しているうちに眠るである。どれだけ人間と呼ばれるもの、社会の構成員として生きようとも此れを放すことは出来なかった。どれだけ怒られようがついていけなかろうが此れをなくそうなんて思考ですら出来なかった。お為ごかしの怠惰的な言葉を掛けながらも減らすことなんて出来なかった。つまり自身にとって一番必要なものなのだ。かたちという人間に於いて日々に欠かせないものなのだ。その上で生きるコトを成すことを当たり前にしないといけない。はっきり言葉に示さなければならない。それこそかたちの説明に必要なものだ。
自身を認める言葉を自身の特性に振り掛けよう。パサッパサッ。そうせざるを得ない当たり前の行為をただ置く。それを憶える。それからをコトを行為できるのだ。当たり前の話なのだ。うん。

私自身を壊すことなんて出来ないのだ。消失はない。摘出しなければ存在し続ける。私は何で生きたいのか。私として生きたいのか。何に基づいているのか。何を判断したのか。判断し続けるのか。分からない。
ただ言葉として示そう。瞬間は通り過ぎた。今も続く瞬間。何かの思い。雲の流れ。凄まじい流れ。言葉は風に乗り大海へ消えていった。俺は黒く輝いた山と青い空と流れる白い雲とリュックサックを背負い眺める。看板は後方にあり俺はもう記憶していない。此れは瞬間だ。しかし空気は詰まっている。生命が鼓動している。永遠であろう。此処に眠る。俺の形成の間隙に詰まっている。かたちの瞬間である。

 

まだ言葉を話したい気分だけれども今日は此処まで。
自分の言葉を当たり前に述べるかたちでいたいね。まだまだ弱いから。はい。