卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

行為を成し遂げてからの話

ぼーと目を瞑りながら夢想しているうちに眠る

 

軽はずみな「やる」、「やりたい」にはもう懲り懲りだ。未定かつ未然、自身がやらないの位置にいて放たれる言葉に信用も信頼もないがそれでも放たなければならないのだ。行為は成し遂げて初めて行為になり其れを積み重ねることによって私の日々になっていく。今わたしが何処にいてどのような感情を抱いているのか。そのことを忘れて明日の為の言葉を吐かなければ明日へと足を踏み出すこともできない私だからこそ「嘘」の言葉を放つのだ。そして学ぶ。自身が一体どのように生きていけばいいのかを。

何処かで聞いた結果私の頭の中に設置されたのは良いが日々に於いて使われず今埃を被っている部分は数多くある。今の私は文章、言葉、文字を建築していきたいと考えているのでその部分を日々の綴りで活性化させて少しずつ埃を払い稼働させていく任務を私によって私が授かっている。
今の私がどのように任務を実行させているかというと例えば本日見事に千秋楽を終えた大相撲を四日ほど前にぼんやりと見ていたときだ。横綱大関人気平幕力士が悉く休場に至り盛り上がりに欠けた今場所、四人いる横綱のうち三人が休場したった一人で綱の重みを背負った日馬富士が序盤から金星を与えて優勝争いの最前線から脱落、他に期待された平幕力士も星を落としていく中でなんとか勝ちを積み上げていた大関豪栄道に優勝の気運が高まるなか彼は後半に星を落としに落として最終的に一度は消えた自力優勝の目をもう一度与えられて気合を入れた日馬富士に千秋楽本割直接対決、優勝決定戦と悉く負けて優勝することが出来なかった。チャンスをものに出来なかった。
今場所ほど大関豪栄道にとって優勝の二文字を得られるチャンスはなかったのだ。普段の場所ではどれだけ序盤に星を積み重ねても後半彼と同等、それ以上の力士が襲いかかって最終的には優勝とはほど遠い勝ち星で終えることが普通であり妥当であった。しかし今場所は違った。彼より力がある力士はたった一人でその一人も彼と勝ち星が二つ若しくは三つほど離れていたのだ。彼、日馬富士に負けたとしても楽々と優勝できる展開に持っていけた豪栄道、後は自分より格下の力士に取りこぼしをしないことに気をつければよかったのだが今場所の彼に其れを出来ず最終的に優勝を逃した。ただでさえ役力士が少ないなか横綱の取りこぼしで得られた機会、約束された妥当を成し遂げられなかった結果が今日のそれである。
豪栄道が連敗を成し遂げたときか。確かさは記憶によって示されないがNHK相撲解説者北の富士勝昭氏がこんな言葉を残した。
豪栄道には“確信”が足りないね」
前置きは長くなったが此れである。この言葉を聞いた瞬間確信した。こうしてまた自分は確かな言葉を得られた。辞書だとかそこらの雑草の茂みにでも潜んでいる確信と云う文字面ではなくて生きた“確信”と云う言葉をその瞬間に得られたわけです。僕の勝手な自分に対する様々な継続線、人生や文章や大相撲や豪栄道や色々ね、が重なった結果見事に私の上に“確信”が生命を帯び始めたのです。使わなかったり使えなかったりすると直ぐにまた埃を被ってお蔵に眠ることになりますが今は生きた。其れが大事。



一体此処まで書くって云うほど書いてはいないが何故か自分が何をこの瞬間に示したかったのか忘れてしまいましたので先ずは“確信”と云う言葉の位置でも書いていこう。其れも書きたかったから。
“確信”。人が“確信”することは難しいと思う。思い込みでは駄目なのだ。思い込みだと信じることに力を使い目の前の事象とぶつかることは出来ない。場所を確かにしなければいけない。私が何であるのかをしっかりと知らなければならない。認めて、認める振りではなく認めて立っていること。それが当たり前にならない限り“確信”には至らない。

私として生きてきて“確信”に至ればそれに越したことはないのだけど私は未だ“確信”に至れずにいる。何の“確信”というと生きるという道において自分がどうやって生きるのかという道だ。その道に戸惑い逡巡というかたちにならないものを日々自身になすりつけ何にもならない、この行為が無駄だと気付く為の日々を送っている。
自分は生きるになる為の方位だけはしっかりと決めた。どうともならない思春期に決めている。しかしその中でどうやれば私として私が認められるかを未だに一つも分かっていない。決めた方位の中で日々なにも為せず通り過ぎていく。
どう云う方位かというとこうすれば人として立派に生きられるという道では生きていけないという方位だろう。そういう道で生きていくには自分は足りないものが多すぎた。何が足りないかというと色々ある。まっすぐ歩くには少々ではなく大きくおっちょこちょいで直ぐによろけ転けて勘違い。行為に浸ろうにも直ぐに疲れて倒れて夢想したり寝る。行為になりきらなければ行為にならないほど行為からほど遠い。普通の生き方、私の持っているもので生きていけばその道に残れないという意味でふざけていた。変な癖を覚えてしまった。今もその癖を引きずっている部分もある。生きるについて、私について変な勘違いを覚えたように思う。まだ私の生きるに、私になりきれてはいないが私はそう思う。今は感じられる。今までの行き方はかぶれていたと述べられる。
人として生きていけば良いのにと思う。そして実行してきたわけだ。被れていても私は実行してきたわけで。そうしていたら被れてしまうのが世界というものの歪みかな? 私はどういうものであれ私として生きてきたのは事実なのに私はいつの間にか被れてしまっていたのはおかしな話。下手な絵に惹かれて結びつけられて絵を見ながら生きてきたから私は目の前に存在した当たり前の情景を一つも憶えていなかった。流れる雲もひらひら舞う蝶も世界を掻き消す大雨も何もかも話すことが出来なくて、それなのにそういうことがあった気がすることだけを話せて、それ以上は何も言えない。絵を見ていたんです。一枚の絵。横にタイトルや作者名や説明が書いてあって私ある程度この絵について述べられますけれど。色々な人がこの絵を見ていたなぁ。紳士のおじさんや淑女のおばあさんや汚く擦り切れた服を着る女の子だとか色々な人がその絵を見ていました。しかしどの人も私とは違う感情を感じてこの絵から通り過ぎて行きました。私はずっとこの絵を眺めていますがどうして眺めているのか分かりません。そうしろと言われたからそうしていますけれど。なにかが違う気だけ日々感じて今日も絵を見ています。時々私とは違う感じの人が来て通り過ぎていきます。私は私と一緒だなと感じる人がいなくて寂しいです。私はこの絵を毎日見ていて何かを感じているはずなのに誰もこの絵を見に来ないのは不思議に感じてしまいます。どうして私が認められる誰かはこの場所に来ないのでしょうか。 ある日絵を一人で見に来た知らない禿げたおじさんに聞いてみました。するとおじさんはこう言います。
「欲張りだからさ」
欲張り? どういうことなのでしょうか。おじさんに聞いてみます。
「絵なんて通り過ぎていくもんさ。それなのに立ち止まるわけでもなく椅子に座って人を眺めている君は欲張りになってしまったのだ」
なってしまったとはどういうことでしょうか。おじさんに聞いてみます。
「君は少しも欲張りではない普通の人間だよ。それなのにどうでもよい絵の横に座ることに時の流れでなってしまった。其れをすれば生きていられると純粋な君は言われた通りのことを実行し続けられる。君が傲慢であったか、周りの大人がもう少し謙虚であったならば別の道に囚われていただろうが残念ながらこの君の人生においてはそれが正解となってしまったわけだ。だからこそその人生、しっかり生きなさい。君が生きたい道をね」
おじさんは傲慢だ。人が人の人生を選ぶなんて。生きたいなんて。僕は生きている。ただ生きている。時には絵から離れて台風で吹き飛んだ洗濯物を拾いにここから離れることもあるわけで別に常々此処にいるわけではない。僕は生きている。其れで十分のように僕は思う。其れにおじさん。絵の前では私語は厳禁なんだよ。護らないといけないよ。おじさん。
「君がいたからなぁ。絵を見に来たわけではない君がいるからだ。絵を見に来たならば言われずとも私語なんて生まれるはずもない。君にとっては嘘だということはなんらかの嘘を感じて君は日々生きていて苦しみを感じているはずだが? まぁ勝手にすればよいさ。私も絵を堪能して此処から退散するわけでね。君も養生したまえ」
そうしておじさんは僕が毎日過ごしている絵の前から姿を消した。次の絵を見に違うブロックに進んだ。僕はただ此処にいて絵を見ている。


まぁ今日は此処までにしておこう。一体何を書いたかなんて知らないけれど。とにかく行為をしかと成し遂げること。形になると思ったものを確かに成し遂げていくこと。それが今の僕の任務だね。

やること
『思ったことを形に成し遂げる』

 

 あと一日1万文字ぐらいは書いていきたい。ノルマは三万文字程度。思いついたこと、横着せずにね。今はまだ手間を怠っているから掛けていないけれど。舞台に上がることだ。其れからの話。いつになったら上がる気な私。ほんとうに。