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僕が七不思議になったわけ

僕が七不思議になったわけ、読書、日々

僕が此処に何かを書くのは、それはいつも言っていることだけれども、純粋に位置付けられた私としての行動ではありません(そういう行動ならば、これもまた勝手な言い分ですが、もう少し分かりやすく世界に顕在するでしょう)。
しかしまぁ。どういう意味合いを自分自身に含んでいるにしても其れでも私ってお話。もっと大きな視線、今を理解した未来からしたら簡単な私が日々続くわけです。
僕の存在する時間が100分だとしたらそのうちの1秒にも満たない時間を小説に費やしています。書く方ではなく読む方です。書く方は自分自身まだ一度も書けたとは考えていません(実際少しも書いていないかたちですし)。
そんな小説を無理やり読んでいる僕にとって、無理やり崩した僕だからこそ出会ったもの。そんな、そんな話ではないけれど僕は自分のこと嫌いと感じます。嫌いだから、痛いからって言葉を過去に被せて篭っています。こう単純に書ける程度の私になってきましたが実際のところ振り返って見れば一体何がなんだか分からない私の性質。私はどうしてこうなったのかと聞かれると家庭と部活と勉強の板挟みにあい自分自身でその物事を処理できなくなったと答えますがそれは正しいけれど正しくありません。私は弱い。何が弱いのか今言葉に出来ませんが弱い。まだ何がなんだか分からないほどに。
僕は自分自身で勝手に分かった気になっていますが仮に読んでいる人。そんな話をするのは不純だなぁと考える僕ですがなんていうかコミュニティケーション。足りない部分を即して自分で補う、何の話? って感じですが僕は一体何を書こうとしたのかってことです。欲に乗って言葉を続けることも足りないものを誤魔化すように言葉らしきもので紛らわすのも嫌だけれどもそれだとその場所に、人と共に居られないから——、それもまた自分自身以外の何者ではない力を失ったただの言葉です。
僕は知りません。どうでも良いし興味もない。
言葉を話すとそんな話では要られません。僕は外に出ると、普段行かない場所です。数年ぶりの本屋さんや、僕の人生の縁も所縁もなかった文学フリマ、昨日訪れた甲子園。目眩がします。自分の大きいと思う行動を当たり前のように行う人間が存在している。そのことを考えるだけで世界に私が居ると教えられます。
別に構いませんけれど生きるのならば、ならばでしょう? 言葉なんてどうでも良いです。今までの言葉、思考、感情全て要りません。どうしてこういうことを残すかといいますと自分は言葉に傾注して歩けなくなるからです。自分の中に傾注していれば世界はいつまでも変わりませんから。

僕は結局私として生きています。私ならばっていう局面あるが今は読み終わった「僕が七不思議になったわけ」というライトノベルの感想を私を交えて書く。
似たような人間と書くと失礼だと思うが僕はこの小説を書いた人に対して似たようなもんだと言葉を使う。どのような経緯で小説になってしまうものを書くのかなんて人それぞれだが私の場合何も書かず読まず誰かが書き描き唄い述べたものを受けてもやもや頭の中に浮かぶものをひょんなずるさから形にしなければもったいないとでも考えたのが始まりだ。それが私の始まり。自分自身が生きていたならばどうであれ問題ないが私の場合自分から逃れたことから常々頭によぎるからこそ問題ありなのだ。
私は喜怒哀楽を示さない。喜怒哀楽を示す人間になるには大変だ。しっかりと色々なものと戦い続けなければならない。誰かが誰かのことを私の一つの可能性として私はそれに傾注できなかったから君は凄いと相手を尊重した振りで述べるが私はそれが大嫌い。はっきりというと死ね。そう思う。
僕の勝手な思い込み。そもそも「僕が七不思議になったわけ」を書いた人の名前を僕は知りませんし、だからこそこの人のことなんて知らない。
僕は自分が嫌だった。何が嫌かなんて瞬間の話だから覚えていないがとにかく嫌は降り積もった。しかしそれを享受も肯定も否定もできなかったからこそ生きている。誰かが残したものを借りて生きる。
僕は何にも感じませんよ。だって私はまだその場所に立っていないからです。どのような私がこれから展開されていくかは分かりませんが自分自身の身体において似たような感慨を覚えることが僕自身に与えられた使命のようにも感じますね。それが僕の「僕が七不思議になったわけ」の感想。