卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

環境

誠実。なんて重たい言葉。
私は色々な嘘をつき続けてきた。人のためになる嘘や、私の立場を守ろうとする意図を籠めた嘘や、気づかぬうちに吐いていた嘘や。
嘘は僕を汚くしていった。僕は誠実とは程遠い人間になっていって、誠実な人間しかいない世界になんて生きていけないから引き篭もった。引き篭もった理由は本当はそれだけではないと考えるがこの文脈ではそうなる。
僕は自分自身の感覚器官を勘違いしたまま運用しているのだろう。私自身の身体を理解せずに誰かが吐き出した言葉の網に掛かって、其処で唱えられる言葉に従って生きてきた。
でも、其れは私ではない。私じゃないということは嘘ということである。
私は今、自分の身体に従って生きようと考える。頭の理解とか、吐く言葉の物量とか、私が私でしかない、そのような満足出来る私として生存したい。私は私になりたい。
喜怒哀楽そのままに表現したい。痛みや悲しみが存在し、血が通う人間になりたい。私の感覚がそうであることを願う。
私は私が読書してきた、視聴してきた、体感してきた人々に負けたくないのだ。私の年代にも負けたくない。1996年世代に負けたくない。ひきこもりの私。私は今いる場所が今いる場所として通わせたい。思考。思考を思考として通わせたい。私は私自身を世界と通したい。本人になりたい。作者になりたい。作家になりたい。そのために全霊を込める、そう言い切る人間になりたい。
私は奈良の半端な田舎町に21年間生息してきた。母父祖父母親族者共の言葉通りに行けば私は大学に行って、頼れる人間として生活する予定だったらしいが、私は高校で私自身のそのような全ての思い込みに耐えきれなくなって、何年か引き篭もった。今もまだ半ば引き篭もっていると言える。私は夜中に起きて、昼間は寝ている。昼間の世界に付いていけない脳をしていることを認めたくなかったが、私はそのような人間である。昼に既に定住する、戦える人間と戦って私自身の誇りを守れるとは考えられなかったから私は実家の二階自室で一人で篭る。友達であったものとも何の疎通も出来ず、遠ざかればもう何の関係もない。通っていた当時からそうであった。私は世界の強さに負けて、逃れて、そのくせ生存している人間だ。知り合いが働いている可能性を秘めた地元のコンビニには八年ほど通過すら心苦しい。地元の中心駅にも知り合いが通っている可能性がある為、平日の昼間、知り合いがいない時間しか利用できない。私は何もかもそのようにして生活してきた。いまだ、ここ五年、僕は小中の同級生とは学童のアルバイトで小学校の教育実習にやってきた女の子ぐらいしか対面していない。あの女の子、もう女性だ、は僕のことをどう思ったのか。生きている存在は眩しすぎて僕には向かいあえない。余りに僕の程度は低すぎた。
今の僕にとっては世界の言葉は、認めるか認めないのか、その二つしか存在しないように思える。認めることが出来る言葉はどれくらい多いのかが人の存在の居場所を決める。なにか、色々な言葉を並べると今の自分自身が此処に居る理由が少しずつ認められるようになってきた。やはり、人が存在するならば、もうその肉体があるという時点で、其処にあるものすべてを認めて居るのだと、僕は少し理解した。私は今此処になりたい。環境になりたい。なれるような気がしてきた。
唱えたい言葉は色々あるけれど、なにかぎゅうぎゅう僕を覆う剥がれた卵の殻に敷き詰められた柔らかく湿ったスポンジが圧力を示して、僕の唱える言葉を圧迫している気がする。本当はもう少し僕は利口なんだ。利口になるために、僕自身が僕のことを理解しなければならない。今出来る僕が僕を理解できる行為を積み重ねていかなければならない。僕は僕の頭の、体の程度を知らなければ。本当に難しいね。