卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

言葉がない場所に逃げ続けるくせに

「あぁ人になりきろうとする拙い子供よ」
私は一つの窓を通して生活した気になろうとする。私は私の窓というものを信頼していない。私の窓は愚かでくだらない。そのような評価を自らに下している。
しかし世界は人が数多く居る。誰も自らの窓で世界を見なければ自分自身への欺瞞で私は私を喪失する。私を失った肉体はもはや必要ない。腐ったドブの匂いで誰も近づかない海辺をぷかぷか浮かび頭の上にペリカンが載っていることが相応しい。
私は何やら、今もまだ人の窓、私自身のではない窓で世界を見ようとしている。此れは私の癖で一生治らないのではと懸念している。人には自らの行いで扱える部分と扱えない部分があり、今の私の小手先の技術ではとてもこの私の悪癖は直る気配はない。私は私の扱えない部分を稼働させて現実を生きていくべきのようだ。本当に不可思議な気分になるはずだが、この文章を記している今の私の気持ちは何にも感じていない。本当だ。
私の世界、私自身とは何であるのか考える。21歳と書くことのできる私に出来ること。今私は最大限唱えることができる私を求めているが、そんな行為が馬鹿げているという感覚が世界に存在することは言葉が通じ合う私の幼少期のコミニュティの延長線を考えればなんてことない簡単な話。
何か私は私を知るための勉強の意図で行ったチャットで与えられた言葉に固執している。変な会話の展開に話が落ち込んでいく私に対して見ず知らずの良い人は「気味が悪い」と唱えた。私自身、今生きていて、私が世界に存在を認められるならばそのような言葉しか形容できず、だからこそ一対一の見ず知らずの彼が与えてくれた言葉は私を安らかにするのだがしかし今もまた、私が扱えない膜に張られた感情は鼓動を続けているので少しずつ私の神経を乱れさせていく感がある。
「私をどのように廻せば私自身にとってのまともになるのであろう」
なにやらかぶれている、私自身が考える言葉の張りとは違う部位でかぶれている私は自身の世界を為しかたとは違う、違うものを求め過ぎだ。私は一体なにをしたいのか。
世界の立脚された言葉は否定も肯定もされずただ聳える。私という舞台に於いて、私は物質を選択していく。私の五感によって微睡む窓を破損することなく通過した物質と握手する。キスする。SEXする。その筈なんだ…。
私は人になりきろうとする。善人ぶろうとする。どうしてそのように振る舞うのか。私は私自身のことを考えなければいけないだろう。私は私のことを振り返れば分かるだろうが今は分かろうとしない。今私の窓を通過する話題ではなく頭の張りを示そうとする言葉で巡り合った文章なんて話す価値まで届かないよ。そのはずさ。
僕は考えて言葉を残すけれども、何かを破壊して言葉を唱えている。何か、元々の立脚と、一体なんなんだろう…。私は私自身で私がこのように形を崩さなければ生存できない道を考えているんだけれども、あの親切なチャットのお方が言っていたように精神科のお方の手を借りることを考えても良いような気もする。事実彼の言葉に流される感情も存在する。私は私がおかしすぎて、不気味で、不遜で、ふざけていることを分かっているのだが、理解はしていない。しているならば、此処には存在しないだろう。
私はずっと同じ場所に存在し続けている。一体私はなにを大事にしてきたのか。深夜な日々を送る私でも昼に暮らせるだろう。その場合、私は私が思う大事なものが一度、汚されてしまう。昔の私はそのことに神経質であったが、此れからはどうだろう。意外になんとかなる気はする。私の現在存在すると考えている窓など私にしか認知されていないのだから。
私はとりあえず現在の世界を理解するために言葉を当たり前に唱え続けることにした。ひっそり、ぐったり自らを傷つけずに生きていくには私は余り狡猾ではないし、自身の気持ちを沈めてしまい落ち込む道を辿る。私は世界の手を借りるため、篭りで、朝昼寝ていて、夜起きていてなにもしていない私を唱えていきたいと思う。今から逃げずに現実の流れを身体にこの時点で携えてそれでも生存していきたい。言葉が、ペンは強くなくてはならないのだ。使われず放置されていた割り箸のように簡単にポキッと実身が折れてしまっては困るのだ。
私は深夜に傾注していない。私は昼に人の生き血が滲み過ぎていて、皆が就寝している深夜に逃げ込んでいるだけだ。私はすべからくしてそうである。私は私を私と位置付けた感覚から逃避することを恐れている。私が一つ大切に思っていることは現時点では守り続けられている。私は私のちゃちな誇りを守ろうとして深夜に逃げ込んだ。ただ単に私の街、私が住んでいる家付近はそのような雰囲気なだけだ。たとえば別の街で暮らすならば、そんな設定は無用の長物であるが考えてみたとしても、その世界に於ける人の闘争から薄い所に私は佇むだろう。私というのは何もかもそのような人間であった。ちゃちなプライドを守りきろうとすることに一生懸命になる野郎なのだ。それ以上の欲望は全て嘘だろう。
ブログというものは社会的なものだろう。その人が持つ特性を充分に示すことが自然と求められていて、其れを意識することなく為せる位置にいる人だけが更新し続けられるコンテンツとかたちは考える。しかし私、自分の行為、私が今此処にいる事象の並列を為して理解していきたいのです。私が扱える言葉が少なくて立派な小説、書けませんからね。
「また自分から逃げた」
あぁ逃避し続ける私。アレが嫌だとか全部嘘だ。俺は人の言葉だけでなく全てのもの関係が嫌で逃れて、一体何を存在させようと考えているのだろう。選択の狭間に常々立っている私には理解が不能だと思うんだけれどもどうなんだろうな。やっぱり分からんわね。