卵の殻保存同盟

落ちた鈍い殻はとてもおいしい、と思う

私は足りない人間。

私は足りないし学ばない人間。物事の成り立ちを省略しようとして大切な過程を抜かし成立を見ず、崩壊する人間。
私は生活するに必要な頭の機能が何処か抜け落ちている気がする。かたちは絵を全く描けない。漫画が好きだったのに、pixivで出会ったイラスト群のように素敵なものが描きたくて、引き篭もったときに二、三年絵の練習をした。tumblr等様々な画像投稿サイトから画像を掻き集め模写をした。模写し続けると、しんどくなって絵から離れた。それでも諦めずにまた挑戦した。その繰り返しでまだ、下手な中では見られる程度にはなったかもしれない。少なくとも田舎の学校で一、二を争う絵的センスのないかたちはましな絵を描けるようになった。
しかしかたちの肉体は全ての行動において足りなさを持っている。何度も鍛錬を繰り返せば其れらしきものを人に見せられるようになるのだが、それは結局ない機能の分をある機能で補っているに過ぎないと思う。そうすることによってその部分の機能が手一杯で他のことを出来なくなるのだ。
しかし動く私がそのことに囚われて目の前の事象に集中しないことは怠慢だ。世界の機能に存在するためには人はあまり物事に囚われることは出来ない。かたちは物事に囚われる人間だったから引き篭もりになった。それから五年あまりで自分自身が囚われない人間として生きられるように色々な思い込みで自らを設定していった。そして私は引き篭もりに相応しい人間として、他者の中に立っていても違和感のない人間になった。

しかし今の私が五年とその前の十何年で積み上げて来た思考は全て私の為で、人が集まるコミュニティに参加出来るほど存在しない酸素の自信でようやくそのようなところに参加することが出来るようになったかたちは色々なことを知れる。
私が今まで積み上げて来た思考は世界に関わることなく消滅する。全て私の中で死んで、さようなら。
やはり人に読まれなければならない。このブログではなく、かたちの小説や詩の話。
少なくとも二回参加した文学フリマで分かったことは私の現在の思考の立ち位置で買ってくれるお客さんの傾向が変わること。
世界はしっかりと存在して、私は私の選択でどのようにも出来る。
才能という言葉に縛られるかたちは思う。人は何を享受、肯定するかがその人をどのような物質か決めるということ。
「どうして、私がここにいるの?」と考えてしまうぐらいにはあほうな焦りを感じるかたちではあるのだけれども、自分の道に存在した私がここにいない為の選択を否定、享受出来ずに此処にいる。自業自得だね?

私は私と出会える人しか出会えない。私は私と出会える人に出会おうとしない。目の前の人から逃げようと腰をひかせるかたち。僕は目の前に向き合いたい。なにか、ひけていると魂がごちゃ混ぜになるし、相手に話させていると私の言葉が話せなくなるし、私は他人の話を理解した気になって世界に存在ふりをするのは嫌。私は引き篭もり。私への引き篭もり。常に私は私となり、私への固執なく、私を存在させなければ嫌。変な気持ちに嫌。
私は一歩を何度も歩むしか存在しない。私の知っている方法で少しずつ進行する他ない。そうして、色々と知って、何かになっていく。

私は色々と能力、方策を知らないので、人と共に存在するならば様々に影響されてはいけない。其れは生きるには本来影響されない部分。
私は私への引き篭もりなので、私が良いと好きと感じた部分はすぐそばにいる人が良いとは思わないので、私はとにかく今は此処で自分の話をする。少しずつ、一歩ずつ歩んでいって、何になるかっていうより、私が私を否定しない生活をしたい。ただそれだけのことでしかない今の環境。