有名な人々

三年後、三年前を振り返り、笑った、僕。

岩井俊二さんの映画「スワロウテイル」の少女に刺青を彫るシーンを見ていると、今を生き続ける者から生まれる物語の尊さについて少々触れて涙を流したくなったが流れない。かたちという生き物はそのように、めったに涙を流せない。そのことに気を病む文章を続けるのではなく、物語の話。絵とか自分書けないし、自分めっちゃ不器用だから、全て糸を紡げず、明日に進めないとかよくあるお話で、だから嫌になる、そのような感情は確かに存在する。物語を作っている、幾つも作る人とは会ったことも話したこともないから本当のところは知らないけれども、僕は物語の力を信じていない。僕は何もかも馬鹿にしている。物語はただの物語。ペンは剣より強いことは確かだが、だからと言ってペンで人を刺すならば、剣で人を刺すようなものでなければ、ペンを剣よりも強く扱えない。少女革命ウテナ最終話の予告では主人公ウテナと影絵演劇二人により、たがが物語の話みたいなことを語ったが、少女革命ウテナは駄作にも程があるというyoutubeでの輪舞レボリューションのコメント欄に対してなにかを返そうと思っても一体私にとって少女革命ウテナはなに? 私は少女革命ウテナとは出会っていない。僕が出会ったのはエヴァンゲリオン任天堂系ゲームやキングダムハーツプロ野球少女革命ウテナというものがどうであれ、個人的には始まりの大きな門として少女革命ウテナはあるのかなと感じたのは、僕の勘違いなのかもしれない(個人的には何故か、エヴァの横には少女革命ウテナが立っているイメージがあるが、其れは勝手な勘違いかもね)。
スワロウテイル」の刺青のシーンでは少女が闇医者によって彫られるアゲハ蝶の刺青について闇医者の誘導による語られる蝶の記憶を語る。僕は「スワロウテイル」をしっかりと見ているとは思えないため、本当のところは知らないが、少女の記憶の蝶は、出まかせのようにぽつりぽつりと人生にとって、大きな枷になっているような体験について、話したかのように映像が見せてきたが、僕はそのように思えず、僕自身がそうであったからそのように語るのだが、激流に流されている人間の、世界から求められる言葉と、私自身の言葉と、私が語ろうとする言葉との、混じり合う乱れが見せた、全くの嘘でありながら、何処か真実味がかたち自身の頭の中で少し妄想してしまった。知らないが「スワロウテイル」とは架空の日本の昔話みたいか、現代話か。そのような物語でありながら、ありながら……。僕が今を語りたい。しかし今は凄く乱れている、そんな気は僕の勘違いなのか。しかし、それでも、なんとか語れるように、苦労してきたとか言っちゃいます? ただ僕の中の連続性を語る中で、逃避と誤魔化しと嘘と否定と辛苦と怒りと叛逆と様々な感情が、世界の事実をごまかして、私を語らせるのだろうか。僕は、自分は何処にも所属していないと学生時代は思っていたけれど、時間を過ごした。過ごした時間も関係なく決定されている僕を否定する僕は何様とかいっちゃいますか。僕は苦しみを受ける事を否定してはいけないとかいっちゃいますか。苦しみを受けないための機械として立派に生涯を過ごす事を誓いますか。幸せだけを残して、苦労は全て排除して生きることを誓いますか。全ての誓いの結果、誰とも出会わず死んでいく自分であることを何一つ否定することなくあったかい沼に浸かり続けることを否定なんて、あんたバカ? 結局は道なんてあまりにも多すぎて、それでも一つしか行けないのは決定しているから、それでも生きてしまえばもう何もなれないことに涙する、叫んでしまうから、何も選ばなかった、つまり両手両足による私の未来を否定したことを嘆きはしなくとも、手足を使ったものたちの僕への視線感情言葉と出会っても、否定も肯定も産まれないように生きることを誓います?
何をしても、何処に行っても一緒だ。選択の後の世界にいる者の自負、どの世界にも嫌気がさして気が乱れて進むことがとても出来なくなったかたちの自負、かたちがもっているもの、かたちができること。時間は進んでいく。「時間よ止まれ」。矢沢永吉が東京ドームか後楽園かそれとも別の場所か知らないけれど、夢を叶えた大きな箱でのライブで歌ったらしいその歌は、動いて動いて掴んだ絶頂の瞬間よ止まってくれという魂の叫びみたいな、そんな言葉をyoutubeのコメント欄で見たことがあるけれども、若い者にとって時間は貴重だ、若い者には未来がある、将来のある若者とか、そんな言葉。僕が野球をしていた時、高校一年の時の夏の大会か、負けた後だったかな。僕がスタンドで応援していた組だったのだけれど、試合後に監督部長が親御さんたちに挨拶をしたときの話。「この子たちは将来の奈良県の大切ななんちゃらほんちゃら」。小中高って、僕にとっては大人っていうのも、そんな外の世界が存在したわけではないから、彼らの言葉をよく聞いて生きてきたから、それが僕の、かたちの生き方。「未来の可能性を広げよう」。「子供は日本の宝」。「夢は無限大」。色々あったけれども、言葉は今の僕に繋がっているだろうが。僕はそんなもの、認めたものも、認めていないものも沢山存在していて。僕が生まれた世界と僕が生きていた世界と僕が生きてきた世界。様々なものが重なった上で、行動することの億劫さ、今が過ぎ去っていくことの恐怖、色々な、色々な。時間よ止まれ。僕が今言うその言葉には、死に対する恐怖、今の僕が消される恐怖、僕の意識が続かないこと、意識が途切れないならば、僕は何になっても構わない。何をしても構わないってならないのが、かたちのミソ。行動に対する意識は低い。
何かを買うことが怖い。何故か店に入れない。料理店。今ふと頭をよぎったのだが、昔僕は服屋とかの店員が僕に話しかけてくるアレ、アレが嫌だからみたいな、そんな感情沢山沢山存在した。料理店に入れない。ショップはなんとかできるよ。お金を財布から取り出すことは苦手だけれど。自動販売機は好き。宅配便はできる時もありゃあできない時もある。今日は色々食べたいものがあって大阪難波の辺りをうろちょろしたけれども、どうしても店の中に入ることはできない。僕の行きたい店が空いていたならば、なんとか入れたけれども、どの店も満席状態。仕方がないから何回か利用したことのあるカツの店に行こうとしたけれども、其処にも入ることも出来ないみたいな。お腹は空きながら、パン屋さんで買うことは慣れているから、パンをいくつか買って、なんば(なんぱとなんば、一体どちらが正解?)駅内でパン一つ食べて、天王寺駅だったかな? 経由した駅の先で、どうしても食べなくちゃみたいな感じで、一応餃子のお店にありつけたけれども、うん、色々難しいよ。そう言う話にしておくよ。では、また今度。