有名な人々

三年後、三年前を振り返り、笑った、僕。

想像するのは得意ではない

想像するのは得意ではない。
電車は路線毎に色がある。言葉で説明不可能だけれど、人が大切にする感情、哲学、思考がそれぞれ規定されている。その域を感じるとなかなかその場所に存在しない僕が可能な言葉を話せずその路線を耳に通す他ない。
どれほど目の前を掬い落とさずに生きているんだろう。目の前を大切、掬い取ろうという感情に恵まれず、それでも主体的と呼ばれる私を創成するとき其れは一体なにになるんだろう。昔とは価値観が違う。言葉の舞台が違う。存在の有無が変わる。
お礼や挨拶や信仰や、世界に蔓延る言葉。本やテレビやネットの中で話される言葉は全部僕には関係ないものとして笑ったり馬鹿にしたりしてきたけれど、全ては現実に生きている。その言葉の中で感情が渦巻いている。人と人の対面が行われている。
バイトや演劇を行う中で人と接する。人は僕を認識している。どうであれ、一人の人間の僕がいる。僕はそこから逃げられない。ある一定の対応が迫られる。そうすると今までいらないと思っていた言葉が必要になる。別にこのまま言葉を使わなくても、自分の世界を続けても構わない。しかし相手が使う言葉は、生きるに理解された言葉であると知らなければならない。それはなにをするにしても知っておかなければならない僕自身への掟であると思う。
人間として主体性が欲しい。僕は僕の思わない部分でとっくに主体性などあるだろうが、それ以上に目の前で落ちる言葉を全て摂取する僕でありたいのだ。少しずつ、一瞬に。
昨日、タブレットで『この世界の片隅に』を観た。あまり好きな映画ではないけれど、ヒットした映画。なにが良いところなんだろうとか考えてしまう。
初めて観たときは正月が過ぎて少しの頃だったと思う。少しだけ働きながら何処にも所属した気になれない僕は平日の朝、骨が入っていない街の映画館でみた。昔から人とは違うことをやりきるになかなか踏ん切りのつかない僕はそういう空間に行くことは頭に電気が走り胸が重くなるため出来なかった。その日はなんとか達成した。何か個人的に達成感があったと思う。
木まで焼け落ちた山だけが見えるのかな。23時ごろの駅にて電車を待っていた僕は灰色になったその街を想像した。自分が育った街の次に縁の深いその街。僕は様々な嫌な想像をしてきたけれど、街が灰色になる想像は昨日初めてした。なぜ僕は自分の街に死の灰が落ちてくるとは考えなかったのだろう。大丈夫と安心しているんだろう。いつどうなってもおかしくない地球なのに。
物語が途切れるのを恐れる。いつ死んでもおかしくないことが理性に触れれば気は乱れる。それでも今を築いていかなければならない。それってやっぱりおかしいと思う。本末転倒。
道が理路整然になればいいと思う。僕は僕が思う制御を越えてまともになりたい。