かたち書房

私の大海は、ここ。

王道を歩めやshooting star

表現は熱と真剣さと真面目さと適当さで世界に表出されると思っている。
今の僕がどのような経緯を経て、成長していくのかはわからない。今信じるしかなかった取るに足りない考えをどのように廃棄して新たな健全な思想を培っていくのか、達成されるのかわからない。不出来な歪み腐った果実になる可能性は多分に含まれている。
僕は非常に歪み捻くれて何もかも暗転の中で理解からほど遠い存在として、気を紛らわせた生物であるように思う。そのような私を如何にプロデュースするのか。僕も他人も分かっていない。
表現とは発露以前の世界から、挑戦して得られるものだ。表現者ならば、発露しようという強い意志を当然のように持ち合わせている。
健全なる他者が如何様にして健全たられたのか。その努力、挑戦。不全なる私では認知できない苦労を背景に今、美しく輝けるということなのだろう。
不健全と共に強く生きようとははかなし。私なりに健全に生きればこそ、世界に出すに忍びない素晴らしい表現者たられる。そうでなければ、お前は一体どうして表現するのか分かったものではないという私への要請が泣き叫んでいる。
私は私を屹立させるために我儘でいなければならない。それ以外のことでは凄まじいほどに順々で素直でなければならない。私は私を表現者でなり立たされることの媒体に於いて鋭いほどに素直に生きていかなければならないのだ。
不健全故にさまざまな障害、苦労、不和を産む。其れは酷いいざこざに発展することにもなる。私はそのようなことをしたいのではない。無茶を望む故に産まれたならばいざ仕方なし。産まれるほかないというのならばその上で健全に素直に誠実に努めてお互いにふさわしい答えに辿り着くように努めなければならない。
私は良く考えすぎと云われる。しかし其れは私が現時点で表現者になるために必要不可欠なものだ。問題は現状の仕組みと私のプロデュース方法がうまくかち合っていないため、本来ならばその部分で形成すべきではない要素を私は不純に接しているという悲劇。恐ろしや恐ろしや。
私のことを理解しているのは私だ。私は私を成長させていくためのレール作りを懸命に構築していく努力に励まなければならない。
私は最高の表現をする為に今があると思う。皆がそれぞれにそれぞれの表現を抱えて生きている。何を強く希求し生きているのか、分かるようでわからない。僕はさっきのやつ、今に関しては。
一つ一つが強く鋭く接続されていき、真の信頼関係を築き、表現者の熱き血潮が舞台を沸かして、観客にも伝わり、劇場は震え、街は驚き、国は振り向く。舞台に於ける活動とは僕はこのようにして強く世界に発表されていくものだと思っている。其れを実現させる為に僕は激しくやっている。つまり僕の思想の実現のために生きている。
周りは僕ではない他の誰かの思想の実現のために生きている。僕はまだ知られていない。僕は知られる努力を勤めていかなければならない。其れが果たして今いる世界でどのような立ち位置の行動となるのか全く分からないが、そうすることによってその世界に対して僕ができる最大の貢献になると僕は信じているのだ。其れはもしかしなくても勝手で我儘で不遜なことかもしれないが、しかしこれが私の生きる、である。生きなければ、なんてつまらないくだらない人生だろうか。生き抜いてやる。生きていくしかない。
今起こっている不純は、結局のところやるべきことをやっていないからこそ起こる非常にマイナスな闘争である。私はそのような闘争なんて不要であると思う。健全な堅実な真剣なる建設的な闘争を人は行わなければならない。そうすることによって個人は大きく世界へと切り拓かれていくのだ。
しかし考えれば考えるほど私はなかなか恐ろしい思念を抱いているのだなと恐ろしくなる。かなりその場所にとって危機たる想いを抱いている。不健全な人間が健全になるということは王になることだと思う。どのような人種も王道を歩むことは可能だ。数々の名君の名の下に謳歌した世界の名において純粋なる王など世界に咲くはずもない。世界は呆れるほどに素朴だったからこそ純粋なる王は世界に咲くことができたのだ。その続きは不全なる王たちによる没落しか待っていない。そのような世界で健全という、つまり王の仕組みを吸収し、世界における健全を反映させた不健全なるものが如何に尖り、目立つものか、語るに及ばない。素朴に不健全な人間が健全に生きることが既に不健全なものなのだから。
ならばどうして不健全なるものは健全に努めようとするのか。それほどまでに歪みを進行させる世界に於いて味わった苦しみに対する返答を確かに目に映る健全なる看板が立つ舞台にて発声する。そうすることで不健全な立場もまた人として存在する意義を伝えたいのだ(と書きながらも自分は本当にこのことを伝えたいのか実際は曖昧だなと頭の中で考えている)。
もちろん今の王に対しても真剣に考え、接しようと努力している。何も反逆しようと思っているわけではない。私は皆と共に健全に強く羽ばたきたい。皆と共に成長したい。私が世界に立たず、作った笑みを浮かべて生きた結果として其れを得たいのではない。本当に心の底から喜び、悲しみ、怒り、笑いたい。作り笑いで褒められても心は響かない。響かずして表現者を名乗るのは私は名が廃ると思っている。
このようにして二千字程度が綴られたわけだが、私はもっともっと今書いてきたことに対して必要な要素があると思っているのだが、まだまだ其れを書ききるには頭がついていっていない。まだ分からないこと、言葉にすべきでないところがたくさんある。私はもっと成長し、努めなければならない。一体何を目指して、何になろうと努めて現実を暮らしているのか。紛い物で語る他なかった次元を早く乗り越えたい。私の認知とそれ以上の不可知の世界が見定めた真にその場に相応しい答えの名をもとに生きることを努めたい。

私は経過を経ればどのような経緯を辿り果てるのかは知識も経験もないためわからないが、一人一人が現代人らしく王になることが表現者の世界において非常に必要なことではないかと思っている。出来ないでで止まるのではなく、出来るようなものととして健全に生きることを努める。世界の変化は簡単だ。問題は個人や周りが其れに耐えられるかである。
耐えられないようであれば、其れは個人にとっては難しい問題ということだろう。出来なかったからといって卑屈になる必要もないと思う。出来る才能を秘めた人間は必ずいる。そのものが達成できるように夢の舞台を保ち続けることが肝要だ。
ってな感じで今回は締めておきます。考えをやめるなは正論であり、誤解だ。いずれはその場所に辿り着くだろうが、巡り方は違うと思っている。完全に今ある不純を焼き尽くしてその場所に辿り着くのだ。ベテランは生き抜いてこそベテランとなるのである。若い老衰などいらない。若さは鋭く努めてこそ若さだ。失敗も酸いも甘いも噛み締めるのが若さだ。若くして老人のように努める。愚かにも程がある。僕にとって考えるということが若さ故の罪ならば、その罪で窒息死するほど考え尽くしてようやく考えなくていいんだって分かると思う。だから考えることはやめない。本当の意味で考えなくてもいいと気づくまで。事実の中で生きていって僕が形成されることなく老人になることは嫌だ。年相応に心も身体も成長していき、僕の周りの人間は僕は目の前にいるんだよって伝わるような生き方をしたい。其れが今僕自身に課している僕の強迫概念だ。

評価とは正しいものだと思う。スターもいれば凡人も逸れものもいる。僕は凡人か逸れもの、そのどっちかであろう。
ただ其れは結局過去の話だ。これからどうなっていくはわからない。人がどのようにして生きたのか。その結果でいともたやすく変化する。
私は私の思念を抱きかかえた上で生きてやる。生き抜いてやる。其れが今まで生きてきた私という生物の責任なのだから。台無しにしてきた過去、塗り替えようのない過去、達成できなかった過去。向き合えなかった今、向き合わなかった今、向き合うしかなかった今、向き合った今。
時代の潮流に流されながら、なんとかして自分なりに答えを出していくしかない。其れが僕という生物のケジメだ。

雨に溺れる[詩]

たくさん雨が降ってまいりました。
海が出来上がっていくのです。水の惑星なのです。
方舟に消えていった爺さま、私を置いていかれました。
爺さまは私のことを忘れてしまったのでしょうか。
お部屋が水浸しです。びしょ濡れです。
それはともかく皆様、お亡くなりになるようです。
お魚さんと方舟だけが無事に。
爺さま、あなた様は一体なにを方舟でするのですか。
いつ退くかもしれない水の惑星に浮かび上がる大陸に立つまで貴方はなにを出来るのですか。
本当に其処は地獄という奴ですよ。
爺さま。救済という御託はなんとも受け入れがたい真実を教えてくれるのですよ。
爺さま。貴方は今までの周りを全て無くして、これからの人類という媒体を全て貴方に費やしたなんともお花畑な世界に生きるんですよ。
億劫な世間から解放されて幸せですか。嬉しいですか。
私には此処で選ばれることも選ばれないことも大した違いはない。幸福という物差しは見当違い、其処にはただ巡り合わせしかないと思います。
爺さま。貴方は生きなければならないという不幸を背負った。方舟は貴方を死なせないため、種のために選ばれた爺さま。なんという不幸を背負っているのでしょうか。
貴方は生きるという一点だけを保証された悲しい生き物なんですよ。怒ってください。怒鳴ってください。
何故こんなことを言いますか。私は死ぬしかないからです。保証なくして生きられないほど雨は酷くて、凍えそうだ。
自由ってなんなんだ。生きるってなんなんだ。私はこれまで何を考えて、生きてきたのか。こうやって肩まで水に浸かり、足が床から離れ始めて五里霧中にならなくてもいいのになんて人は気まぐれなんだろうか。
爺さま。空洞です。何かを伝えたいのに、私の外面には伝えるべき言葉が沢山あるのに、まるで日光に燃える石像のように私は話せないことを強制されております。
爺さま。もっと色々なことを話していたかった。考えたかった。思いたかった。
爺さま。貴方の未来は広がり、豊かで、美しく、やさしくしてくださいね。
爺さま。この言葉が届かないことを悲しく思っております。
爺さま。
爺さま。
爺さま。
もっと早いうちに伝えられたって、わがまま、甘えたかったな。

 

 

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伝えようとして、聴こえるのは聴こうとする意識のあるものだけ。
どれだけの豊かさ、美しさも向かわなかったら、私の中ではない。
今まで周りを浮遊していた様々な思想も僕という狭い視線が限定的に浮かび上がらせていたんだろうなと思うと非常に矮小な僕が今此処にいることがよくわかる。
ノアの方舟の話は確か絵本で読んだように思う。私は彼らは幸福だと、優越心溢れるものの記述のように感じられた。実際のところは違うのかもしれない。
本当に恐ろしい。案外知らないだけで、私は確実に何らかの敵となり否定し、疑っているみたいで。
果たして実際のところ、別の感覚はやはりそのもの自身にならないと得られない。しかし学ぶことは可能だ。
生きることは不幸であり、幸福だ。僕は不老不死を願っているんだろう。永遠に生きられないのであれば、其れは不幸であると思っている節がある。どれだけ大層な願い、思いも今まで何度も何回もありふれて達成して忘れられていった物語で、そしてその結果果てていく。
生きることは、世界に対する反逆だ。永遠を個に約束しない、そのことによる苦しみ。私たちは継続させなければ生きていけない。生きようと努めないと死ぬ。世界に枷を嵌められた私たちは努めなければいけないという不幸、或いは幸福を元に生きている。
私たちは今ある世界で、どのような災難があろうとも命をつなげていく想像力と実行力をもとに生きていく戦争に参加している。今考えられ得る宇宙の中で私たちの才能で何処まで繋いでいき、負けないで生きていけるのか。
中国の歴史を勉強すると、戦勝国が文字を残し、負けた国の記述は残されないと書いてあった。我々の胸の内に浮かぶ言葉もまた今生きる為の言葉だけが残り、殺したり殺された言葉は全て、過去に置いて過ぎ去ってしまった。
地球という限定された奇跡の星を覆う災害に種のために起こった奇跡、自分の力で生きることも叶わない敵に負けて救われた人間は残念で愚かにもほどがある。だろうが、それでも生きていくことはそれほどにがむしゃらで醜いものなのだ。
ここまで文章を進めると私が言いたいこと以上に不必要な言葉を付け足した残念な文章のように思う。本当のところは、私が言いたいことの続きをつなげていく非常に魅力的な文章であったならばいうことはないが、残念ながらいつもそうはならない。

正体を

何の為に生きていくのか。生きれるのか。理由が未だ掴めない。
何をしたいのか。何をしていくのか。早く判りたくてやきもきするのだが、なかなか分からない。
健康的な生活に文化は必要だ。しかしある人は文化は世の中にとって有害、無駄であると話す。僕もそう言われるとまるで無駄なように思えてしまう。
そういうことを云う人は文化をしていない。していないからそう云うことをいう。
踊ったり話したり歩いたり歌ったり。文化的な生活とは人が濃密な呼吸をし充実することだ。生きる活力だ。
生きる活力に不純な滞りなど負荷されない。別種の存在は互いに影響することはできるが、混ぜ合わせてスープにすることは出来ない。僕はそれをしなければならないと努力していたが、それは要らぬ努力だった。
集団の中の個人。個人の中の集団。何が正しいかという観点はその場所の密度の濃いものに傾いていく。僕が今感じている強迫的な正しさもそうであると僕が認識しているものも有ればそうでないものもある。正しさという言葉でさえ実のところは欺瞞を大いに含んでいるのかもしれない。
僕という生育に於いて実感してきたことのままに世間を流されたい。私は私という現状を懸念している。私という人間が為せることは今は違う世界にあるのではないだろうか。その場所で貢献しないことは私という存在が正しく稼働していない証拠ではないだろうか、と。
しかし実のところ繰り返しにはなるが、やはり欺瞞だ。今という現状は正しき私という結果だ。それを巧く認め、行動していけるかどうかが今の私に求められている。
今の私は一大事業を成し遂げたいと思っている。私という人間が腰を据えてできる仕事はなにかと見極めようとしている。そしてそれはとっくに気づいていて、気づきに鈍感であろうと務めてきた要らぬ努力を覆す為に今を費やしているのだ。
自分に焦らないように。そうなるように祈っている。

サメジマ・マミ美は町を出て行った

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何にもない、何が始まるわけでもない町。
社会を、町を営む人々の喜怒哀楽はあるが、特別心を震わせるなにかなんて存在しない町。
大きなスケールは外からやってくるが、彼らは嵐のように町をやってきて、荒らすだけ荒らして帰っていく。
色々あって特に世界に影響を与えることはしていなかったサメジママミミがなにかと出会ったワンシーン、傍観者としての責務を自然と果たした瞬間について書いておきたかった。久しぶりにフリクリを全話観た。
サメジマ・マミミは不幸であり、歪んだのか歪んでいるのか、生活環境も生活態度も性格も色々と大人になっていく人間として堕落した部類に入るだろう。強い優しさや穏やかさ、人に対して善を施すことが当然の人種ではなさそうだ。人と協調して生きる意識はもともと希薄なように見えるし、それが相まって彼女はそれなりに学生生活を楽しんでいる人間からすれば不幸、煙たい、キモいと呼ばれる立場に位置している。
自分なりのペースで感情を出す前に色々と否定的な態度を取られ、擦れるしかない社会で彼女に手をさしだしてくれたナオタの兄の存在はまさに天使のような神々しさを纏っていただろう。ただ残念なことに彼は彼女とは違い、それなりにまともで自分の野望、性欲、欺瞞に正直な人間だったようで、いつまでも隣にいるような男ではなかった。天使が自分から飛び立っても世界は続く。何にもない何か始まる町で全てに踏みじられる為に存在する彼女にそう何度も天使は手を差し伸ばしてくれない。だからこそ、天使は偉大に感知される。彼女は奇跡が去ってなお、一人で道に迷った、もしくは愚かな子猫を慰めながら誰も其処を住処と思わない河川敷でタバコを吸い、空を眺めるしか出来なかった。何も何にもない町からも溢れてしまった人間に許された職などあんまりない。其処に幸福は流されて生きていくならばないと言えるだろう。
彼女が最終話で、彼女が外の世界へ出た理由となったワンカットを撮った瞬間。彼女がここまでのどうしようもない人生に於いて初めて出会った特別な瞬間。彼女は初めて自らでこの町を出る決心、手を伸ばした。自分の人生を決めたのだ。
この町になんらかの違和感を覚えながらもまだ人々とうまく話すことができるナオタは、何にもないから、何か始まるわけでなくても、ここで考えて感じて生きることができる。ナオタはまだ生きることができる人間なのだ。だからたとえこのなかで生きて死んでいくにしても外の世界を覚えていようと想うことが出来る。ナオタはどちらの世界を見る才能をもって産まれた人間だ。そして彼の場合外にいくときは大人になってから。彼はこの町で大人になれる人間だ。
サメジママミミはまだ子供だが、あの瞬間は確実に大人の目だった。彼女はこの街では大人になれない。この町で愚かものしかやってこない河川敷のような町で彼女は自分の人生を生きていけるのだろう。
サメジママミミがどうなったのか。ナオタは知らない。彼女にとって不自由、不愉快を産む場所でしかいられなかったこの町と彼女は決別した。彼女は猫のような人間だ。連絡がないことこそが彼女が彼女らしく生きている証。スパッとスッキリした彼女に出来る限りの幸福が偶然多く降り注いでいくことを幸福に観点を置きがちな私は祈っている。彼女のような人間は自分から幸福を祈らないだろうから。

人との関係を本のように感じている。
本は色々な種類があり、色々な人、場所にある。
今猛烈に読みたい本があるのだが、私もまた本であって、別の誰かに読まれるために幾つか本を挟んで正面を向いている。
私は人となって、その本を読んで、笑い泣き苦しみたい。
僕は変わりたい。

他人に感じていたこと

出会う人の至らなさ、物足りなさ。
其れはその人の性質ではない。
私が選んだ選択に対する私の所感が込められているだけ。
私は申し訳なく思う。私は私を恥じて、努力するべきなのだ。
この方向の知覚を深めたい。私は物事を出来る限り、そのままで眺める能力が欲しい。
私はそのように変わりたい。私自身がしっかりと生きていけるように。

予定

来月終わるまでには一つ冊子を作ろうと考えていて内容としては
・自分の小説
・エッセー的な
・好きなアニメ、漫画、小説の紹介
・印象に残る創作物のシーンを語る
というところで纏めてみようかと思います。
最初は自分一人で書きますが、やっていくうちに好きな文章や絵を描く人や参加したい方を巻き込んで色々なことを出来ればなぁって考えています。